故地 |
我が家の生活基盤は当初は千葉県、その後900年間ほどは茨城県でした。そのうち約430年間は現在の稲敷市です。下記は、私の先祖が平安時代前期から大正時代まで居住し、お世話になった各地です。『Profile』、『太田氏概説』と併せてご覧下さい。 |
平安時代前期(昌泰(しょうたい)元年(898)頃)~平安時代中期((承平(じょうへい)また(しょうへい))5年(935))頃(Note 1-1) 居住地: 筑波山西麓 筑西市東石田 平國香(たいらのくにか)が本拠地としました。約37年間。 寛平2年5月12日(890/6/3)、國香(当時は良望と称す)の父高望王(桓武曾孫)が平姓を賜わり、昌泰元年(898)4月に上総介に任じられて妻や長男の國香、その弟らと共に京都から上総國武射郡へ下向してきました。参照: 桓武平氏略系図(PDF) 國香は常陸國新治郡大串(下妻市大串)を本拠とする常陸大掾(ひたちのだいじょう)の源護(みなもとのまもる)(嵯峨源氏または仁明源氏)の女(むすめ)を妻とし、やがて國香が常陸大掾職を継承します。 平國香は真壁郡石田(筑西市東石田)、その弟平良兼は真壁郡服織(桜川市真壁町羽鳥)、同じく弟平良将(良持)は下総國豊田郷(常総市)、同じく弟平良文は筑波郡水守郷(つくば市水守)へ、それぞれ移住し本拠地とします。 承平元年(931)になると、平良将(良持)の男、つまり國香の甥にあたる平将門(たいらのまさかど)は、源護や同族である平氏一族と所領争いと女論から戦いになり、國香は源護に味方したため承平5年2月4日(935/3/11)、将門勢に追い詰められ居宅に火をかけられて自殺するに至りました。 承平の頃は将門と同族間の私闘、すなわち親戚同士の内輪揉めでしたが、天慶(てんぎょう)2年(939)に将門が常陸國府を襲った時点で国家に敵対する叛乱に拡大し、将門が京の朝廷に対抗して「新皇(しんのう)」を宣言するに至り乱の頂点に達します。これは、2件の『天慶の乱(てんぎょうのらん)』(Note 1-2)の一つ、『平将門の乱』と呼ばれます。もう一つの『天慶の乱』は、瀬戸内海で起きた『藤原純友の乱』です。 天慶3年2月14日(940/3/25)の幸島郡北山の戦いで、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の支援を得た國香の長男平貞盛(たいらのさだもり)の放った征矢(そや)が将門の眉間に命中(Note 1-3)、落馬した将門は秀郷に首級(しるし)を取られたとされています。 『平将門の乱』は私の先祖一族の内訌が発端であり、それ以外の人々にとっては迷惑千万・被害甚大な事件でした。この争乱で、板東の多くの地域、特に常陸、下野、上野、そして下総を戦乱に巻き込んでしまいました。その後遺症は大きく、田畑の荒廃が100年も続いたと言われます。たいへん申し訳ないことです。 『平将門の乱』は朝廷をも震撼させる大事件でした。成田山新勝寺が朱雀天皇の密勅により『平将門の乱』の平定を祈願して天慶3年(940)に開かれたということが、それを証明しています。 國府を襲ったことから朝敵として誅殺された将門ですが、将門にしてみれば藤原忠平に仕えて京にいる間に父の遺領を親戚が寄ってたかって侵略し横領していたから戦ったのであり、「新皇」の宣言は元武蔵権守の興世王ら周囲の進言を容れたのでしょう。遠祖國香を殺された私ですが将門を憎む感情はありません。 『平将門の乱』については『歴史年表(PDF)』の承平元年(931)以降に「将門記」を引用して詳述しています。 『平将門の乱』の鎮定に功ある者のうち貞盛の子孫は平氏本流の伊勢平氏となって清盛の代に平家一門として絶頂期を迎え、壇ノ浦で絶えます(Note 1-4)が、藤原秀郷の子孫「秀郷流藤原氏」は現在もなお繁栄し続けています。 Note 1-1: 当サイトの時代定義 平安時代は、桓武天皇により平安遷都が成った延暦13年(794)を始期とし、源頼朝が追捕使と地頭の補任権を得る、言い換えれば頼朝が事実上日本の支配権を握った元暦2年(1185)を終期としています。 そして、延暦13年(794)~延喜23年(923)を前期、延長元年(923)~久安6年(1050)を中期、仁平元年(1051)~元暦2年(1185)を後期としました。つまり、平安時代391年間を単純に三等分せず、切りの良い改元の年を区切りとしました。 Note 1-2: 『承平・天慶の乱』と呼ばれることがありますが、承平の頃は「乱」にまでは至っておらず同族間の私闘、すなわち内輪揉めです。(Note 1-5) Note 1-3: 幸島北山の合戦に於て、将門に命中したのは貞盛でなく秀郷の男千常が放った矢であるという説もあります。 Note 1-4: 壇ノ浦で絶えたのは、貞盛の子孫のうちでもいわゆる平家一門(平氏と平家については下方のNote 3-2)と、その郎党です。且つ、男系に限られます。中国では、「易姓革命」の政治思想から前王朝の庶流の子孫までも徹底的に探し出して殲滅するのが普通でしたが、日本にはそのような思想がないので、貞盛の子孫の庶流はもちろんのこと、平家一門でさえも生き残った人はいます。しかも、女系では清盛の血統は現在の天皇家へつながっています。 Note 1-5: 「乱」の定義について、当サイトでは国家に敵対する叛乱のような、「変」より規模の大きな争いを「乱」と捉えております。 |
『平国香説明板』 (旧)明野町教育委員会/(現)筑西市教育委員会 茨城県筑西市東石田の長光寺門前。長光寺山門はこちら。 |
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『(旧)明野町標識』 茨城県筑西市 平國香の本拠地です。 |
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『(旧)明野町東石田標識』 茨城県筑西市 東石田には、平國香の居宅がありました。その跡地が長光寺です。 |
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平安時代中期(承平5年(935)頃)~平安時代後期(永暦((えいりゃく)また(ようりゃく))元年(1160)頃) 居住地: 筑波山南西麓 つくば市水守と北条 常陸平氏祖となった平維幹(たいらのこれもと)から、5代後の平忠幹が信太郡(文禄4年(1595)から河内郡)東條の地へ移るまで約225年間在住。 長兄の義幹は、忠幹が引っ越した後も建久4年(1193)に源頼朝に追放されるまで、この地を本拠としました。 『平将門の乱』鎮定の功で従五位上に昇進した平貞盛は京へ戻ります。その際、貞盛は弟繁盛の男維幹を養子にして常陸國の全所領を維幹に譲渡しました。(Note 2-1) 平維幹は、なりふり構わぬ手段、例えば京の貴族藤原氏への贈賄などで経営に励み常陸平氏祖となります。爾来、常陸平氏は維幹の「幹」を通字(とおりじ)(Note 2-2)とします。『桓武平氏略系図(PDF)』 果たして、維幹の努力は報われました。万寿4年(1027)前後に千葉県で上総介平忠常(かずさのすけたいらのただつね)が暴れた『平忠常の乱(たいらのただつねのらん)』の頃、維幹は水守(つくば市水守)と多気(つくば市北条)に館を持ち大きな勢力を有していました。官軍である忠恒追討軍の2千騎を率いる常陸介源頼信に維幹が私的に提供した援軍は、官軍を大きく上回る3千騎だったことから、維幹の勢力の大きさを推測できます。維幹の支援を得た源頼信は、長元4年(1031)に『平忠常の乱』を平定することができました。 平忠常も、常陸平氏から範囲を広げて板東平氏という面では平維幹と同族ですが、両家は彼らの先祖の代から争っていて、維幹は官軍に味方すれば朝敵として忠常を討つことができるチャンスと捉えたはずであり、願ったり叶ったりの状況でした。 ところで、現代も同じですが財を築いた人の子は増長してダメオやダメコになりがちで、常陸平氏宗家2代目の平為幹は問題児だったかもしれません。「常陸介藤原惟通(紫式部の弟)の没後、寛仁4年(1020)7月、惟通の妻を常陸大掾平維幹の男で常陸平氏宗家2代目の為幹が襲う。『歴史年表(PDF)』」という事件を起こしました。 為幹が問題児か否かはともかく、常陸平氏は繁栄し続け3代目重幹(繁幹)の男が吉田氏、石毛氏、小栗氏に分かれ、吉田氏は石川氏、馬場氏へ、吉田氏はまた行方氏、鹿島氏へ、行方氏は小高氏、嶋崎氏、麻生氏、玉造氏へ、鹿島氏は徳宿氏、烟田氏へと発展して行きます。『桓武平氏略系図(PDF)』 常陸大掾識は重幹の長男致幹が継いで常陸平氏宗家4代目となり、致幹の男5代目直幹は平安後期、男4兄弟のうち3人へ領地を割譲し、それぞれ名前に領地名を冠して独立しました。先ず4男が仁平元((にんぺい)(にんびょう)(にんひょう)(にんへい))年(1151)以前に下妻(茨城県下妻市)を領して下妻四郎弘幹(しもづましろうひろもと)、我が5男は永暦元年(1160)頃に東條五郷(小野(稲敷市小野)・朝夷(稲敷市下根本)・高田(稲敷市高田)・乗浜(稲敷市神宮寺・阿波)・稲敷(龍ヶ崎市八代町))を領して東條五郎左衞門尉忠幹(とうじょうごろうざえもんのじょうただもと)、6男は承安((じょうあん)(しょうあん))2年(1172)に真壁(茨城県桜川市)を領して真壁六郎長幹(まかべろくろうながもと)と、それぞれ名乗ります『桓武平氏略系図(PDF)』。ただし、長男義幹は、末っ子の長幹が真壁を名乗った頃にもまだ独立できずにおり、安元2年(1176)に父母を殺害して(Note 2-3)強引に常陸大常識と多気の所領を相続したようです。多気太郎義幹(たきたろうよしもと)と名乗りました。 一方、京の都では貞盛の子孫が繁栄し、仁安2年(1167)には清盛が太政大臣に上り詰めるなど平家一門が全盛期を迎えていました。 Note 2-1: この優しさが、その後の平氏に連綿と受け継がれ、平家絶頂期を演出した平清盛にして源頼朝の助命という失敗を犯す遠因になったという指摘があります(平氏と平家については下方のNote 3-2)。 対して源氏は頼朝のように、昨日までは頼れる存在だった人物(例えば上総介廣常)でも容赦なく粛清し、さらに年端の行かない少年(例えば木曽義高(12歳))でさえ、将来危険な存在になりそうなら殺してしまうという冷酷さを有し、且つ徹底しています。 Note 2-2: [語句説明] 広辞苑によれば、つぎのとおりです。 通り字(とおりじ) = ①祖先から代々伝えられて人の実名に付ける文字。平氏の忠盛・清盛・宗盛の「盛」の字の類。つうじ。狂、比丘貞「家に伝はる-とやらいふ事があるげなが」 ②省略 Note 2-3: 『龍ヶ崎市史』によれば、『吉記』安元2年6月18日条に父母を殺害した旨の記述があるそうです。 |
『水守城址』 茨城県つくば市水守 承平5年(935)頃から永暦元年(1160)頃まで、ここ水守と多気に約225年間在住。 『将門記』に「水守の営所」とあり、その当時からここには何らかの施設が存在したようです。 |
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『多気(たき)城址と筑波山』 茨城県つくば市北条 |
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『多気城址中央部』 茨城県つくば市北条 承平5年(935)頃から永暦元年(1160)頃まで、ここ多気と水守に約225年間在住。 |
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『日向廃寺跡』 茨城県つくば市北条 日向廃寺跡は、多気城址の南側真下です。我々4兄弟の長男多気太郎義幹が造営したようです。 |
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平安時代後期(永暦元年(1160)頃)~鎌倉時代~室町時代~織豊時代(天正18年(1590))(Note 3-1) 居住地: 稲敷市 平忠幹が東條五郎左衞門尉忠幹と名乗り東條太田城を拠点にしてから、豊臣秀吉に滅ぼされるまで約430年間。 東條氏を名乗って独立、失敗しながらも全盛期を迎え、結果的に滅亡するまでは長い年月でした。その間、つぎの重大問題に対処しなければなりませんでした。 重大問題 その1: 志田義廣(信太義広)の反乱(野木宮合戦)において義廣に荷担したこと。…源頼朝勢に惨敗 重大問題 その2: 「その1」によって鎌倉時代に幕府から冷遇されたこと。…作戦が功を奏して興隆へ 重大問題 その3: 足利尊氏に対抗するため南北朝内乱期に南朝方として挙兵したこと。…余力を残して降伏 重大問題 その4: 織豊後期に後北条氏(小田原北條氏)へ与同したこと。…東條氏滅亡~太田に改姓して江戸に潜伏 東條忠幹が父直幹から割譲されて領した小野川東側の信太郡東條(小野川西側は信太荘)は、康元元年(1256)8月以前、3代清幹か4代宗幹の頃に熊野新宮速玉社へ寄進し立荘して東條荘となりました。 後に起きる源平争乱は源頼朝が勝利を収めますが、頼朝方の軍勢のほとんどは板東で繁栄していた平氏です。したがって、実態は「源平合戦」ではなく「平平合戦」であり、源氏・平氏連合軍 vs 平家という構図です。頼朝挙兵前後の様子は『歴史年表(PDF)』に詳細を集録しています(Note 3-2)。 平直幹の男4兄弟のうち、末弟の真壁氏だけは風と空気を読む能力に長けており、各時代の勝ち組に付くことができて江戸時代も乗り切りました。 長男の多気氏と次男の下妻氏は、鎌倉初期の建久4年(1193)に源頼朝により没落させられました。ただ、多気氏は断絶ではなく領地没収と官職剥奪であり、相模國芹澤へ移住し芹澤氏として復活、子孫が常陸國へ戻り繁栄して現在へ続きます。(Note 3-3) 我が東條氏はというと、風と空気を読むのが下手でした。せっかく鎌倉時代後期から南北朝内乱初期に繁栄したのに、南朝に味方して降伏します。南朝と北朝のどちらが正統かなどの問題ではありません。勝ち組か負け組かということです。織豊後期には豊臣秀吉の敵に回って没落してしまいました。 南北朝内乱期に体力を消耗した東條氏も應永11年(1404)までは鹿島大使役記に登場しますので、この頃までは充分な勢力と財力を保っています。 一方、東條太田城から近い江戸崎には嘉慶元年(1387)に美濃國守護土岐氏傍流の原刑部少輔秀成が関東管領山内上杉憲顕の被官として移住して来ました(当初は土岐原氏を名乗り、後年美濃の本家を譲られ土岐氏に復す)。 應永(応永)30年(1423)8月、山内上杉清方に従う土岐原憲秀(2代目)は、鳥名木國義、烟田幹胤を含む鹿行諸氏、東條氏らを率いて小栗城(協和町)の山入与義を攻めていますので、東條氏もこの頃は一定の勢力を保っていました。 しかし、永享12年(1440)の『結城合戦』のときには龍ヶ崎氏に拠っていたもようです。 文明13年5月5日(1481/6/2)の常陸國『小鶴原の合戦』のとき、東條氏は常陸大掾氏、北條氏、真壁氏、笠間氏らと共に小田成治に従って水戸の江戸氏と戦っていますので、何とか復活したようですが、その後、土岐氏と姻戚関係を結んで友好的に土岐氏勢力圏へ吸収されて行きます。 私は、その経緯をつぎのように推測します。江戸崎土岐原氏4代目の景成が明應6年(1497)に亡くなったときに嫡男がなく内紛が発生、そこへ付け込んだ小田氏に攻められ敗北。江戸崎城は、しばらくの間、小田氏に横領されたようです。その後、土岐原氏旧臣が美濃から来た土岐治頼(美濃國守護で斉藤道三に逐われた土岐頼芸の実弟)を土岐原氏5代目として迎え、大永3年(1523)から勢力を挽回する過程で隣接地の東條氏を誘ったのではないでしょうか。衰亡しつつある東條氏にとっては願ってもないことだったと思われます(Note 3-4)。なお、頼芸から土岐氏宗家を譲られた治頼の嫡男治英の代から土岐氏に復したそうです。 天文22年(1553)には東條氏は既に土岐氏の麾下に取り込まれており、この年に土岐氏が小田氏治(天庵)と戦ったとき東條泉城主東條兵部少輔重定(土岐萬木(まんぎ)氏族なので東條氏への婿殿)が小坂で討死しました。その男乙丸は脇墾田の土民に救われ、それを知った和泉の土民が乙丸を連れ帰り養育。乙丸は後、東條彦右衞門と改め子孫は龍ヶ崎市で現在に至ります。東條泉氏の位牌は江戸崎管天寺にあり家紋は桔梗とのことです。 弘治元年(1555)、土岐氏の意向に従い東條英重(東條英幹男)が東條泉城主(現龍ヶ崎市)となりました。乙丸が幼少だったためと思われます。 龍ヶ崎市馴馬の来迎院に現存する多宝塔を土岐氏が主体となって修復した弘治2年(1556)5月付多宝塔相輪の宝珠銘文を江戸後期の考証学者宮本茶村が調査し書き写しており、そのリストから土岐氏の麾下にいる東條氏が土岐氏に協力したことが分かります。 また、この多宝塔相輪の宝珠銘文に於いて、土岐氏は東條泉の系統を東條氏の宗家として扱っています。したがって、東條太田に住した我が家の系統は傍流ということになります。 その土岐氏は小田氏との抗争と内紛で疲弊し、佐竹氏の南下政策に対抗するため後北條氏(小田原北條氏)に与したため、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めに伴う常陸國の合戦で標的にされ、秀吉の派遣軍に攻められます。このとき、土岐氏当主治綱は江戸崎城主、その弟胤倫は支城の龍ケ崎城主、治綱の男頼英は支城の東條太田城主でした。 私の直系の先祖東條彈正は天正18年5月20日(1590/6/21)(推測)、秀吉方蘆名盛重に攻められ討死、東條太田城落城。最後の東條太田城主となった土岐頼英は幼少のため父治綱の江戸崎城に籠城していたはずで、東條太田城は東條彈正ほか僅かな守備隊が残る程度だったと言われます。 江戸崎城は秀吉方蘆名盛重配下の神野覚助軍に攻められ同5月20日に開城。城主土岐治綱は家臣数十名と共に帰農、男の頼英は叔父胤倫に庇護され蟄居して、それぞれ命脈を保ちました。 宮本茶村編纂の『常陸誌料』によれば、東條氏没落2年前の天正16年(1588)に彈正の父東條兵庫幹要が土岐氏(たぶん)に宛てて「誓書」を書いています。その誓書を書いた幹要は既に没していたか、または彈正と共に戦死したと思われ、ここで常陸平氏東條氏は一旦滅亡します(延寶7年9月16日(1679/10/20)再興~寛政5年8月19日(1793/9/23)嗣絶)。 このとき、東條彈正の子の助衞門某が生き残りました。助衞門某は後北條氏方残党探索の手から逃れるため太田に改姓して江戸に潜伏し、太田氏初代となります。 なお、東條氏の生き残りは、上記東條泉氏、東條英機さんの系統、そして私の系統の東條改太田氏があり、東條英機さんのご先祖は遠く東北地方まで逃げました。東條氏分家の東條高田氏、東條大沼氏、東條社氏は、天正18年の時点でどうなっていたかは不明です。 ちなみに、横浜三渓園の原三溪は土岐氏の裔とのことです。 Note 3-1: 当サイトの時代定義 ◎鎌倉時代は、源頼朝が追捕使と地頭の補任権を得た、言い換えれば頼朝が事実上日本の支配権を握った寿永4年(1185)を始期とし、新田義貞の鎌倉攻めで北條一門が倒される正慶2年(南朝元弘3年)(1333)を終期としています。 そして、寿永4年(1185)~天福2年(1234)を前期、文暦元年(1234)~弘安11年(1288)を中期、正應(正応)元年(1288)~正慶2年(南朝元弘3年)(1333)を後期としています。つまり、鎌倉時代148年間を単純に三等分せず、切りの良い改元の年で区切りました。 ◎室町時代は、足利尊氏が室町幕府を開いた建武3年(1336)を始期とし、南北朝内乱期と戦国時代を含み足利義昭が織田信長に京都を逐われる元亀4年(1573)を終期としています。 ◎戦国時代は、『應仁(応仁)の乱』が始まった應仁元年(1467)を始期とし、織田信長の出現で乱の沈静化が始まるまで、すなわち信長の力で足利義昭が室町幕府の将軍になる永禄11年(1568)を終期としています。この時点では室町幕府は存続していますので、まだ室町時代です。 ◎織豊時代は、織田信長が出現した永禄11年(1568)を始期とし、豊臣氏の終焉、すなわち関ヶ原の合戦で德川家康方が豊臣氏側に大きなダメージを与え事実上天下を取る慶長5年(1600)を終期としています。織豊時代は、文化史では安土桃山時代と一致します。 Note 3-2: 平氏と平家 坂東で栄えた平氏で主として伊勢へ進出した平貞盛の子孫のうち京都で繁栄した清盛を頂点とする一門と、高棟王の系統が『平家』と自称しました。ちなみに我が家を含む常陸平氏は、伊勢平氏となった平貞盛の弟で常陸國に留まった平繁盛の系統です。貞盛は繁盛の男維幹を自らの養子とし、常陸國の全所領を譲渡してくれました。 Note 3-3: 多気義幹と八田知家 多気(つくば市北条)を本拠地として栄えた常陸平氏宗家は、6代目多気義幹のときに災難に見舞われます。 源頼朝は、源平合戦で戦功をあげた八田知家(小田氏祖)に常陸國守護職を与えて常陸大掾多気義幹の多気城と目と鼻の先の小田に配置し、知家は小田城を築きます。多気城から南南東へ僅か3.8 Kmという至近距離ですから、頼朝の意図は明白です。 八田知家は、多気義幹が設けた灌漑用水路を「多気城の防備増強のための堀である」と幕府に訴え、加えて建久4年5月28日(1193/6/28)夜に発生した曾我兄弟の仇討ち事件に際しては予め義幹に「不穏な動きがあるから注意するように」と告げて多気城に籠もらせておき、事件後に「いざ鎌倉!と駆けつけなかったのは義幹に謀反の心あり」と幕府へ訴えました。義幹は同年6月22日に鎌倉で知家との裁判に臨むも敗訴、多気の所領を没収され常陸大掾職を剥奪されます。八田知家はこの機に乗じて常陸大掾識を欲しますが認められず、大掾職は義幹と同族である常陸平氏の馬場資幹に与えられました。 頼朝に多気を逐われた多気氏は相模國芹澤に移住して芹澤氏を名乗りました。さらに代が変わり天文年間に常陸國へ戻って行方郡に芹澤城を築きます。ところが、天正19年(1591)3月に今度は佐竹氏に逐われてしまいます(Note 3-3)。しかし、芹澤氏はへこたれることなく江戸期も乗り切ります。土浦市(石岡市か)の開業医がご後裔とのこと。 常陸平氏の通字である「幹」から、200石の水戸藩士となった芹澤高幹(『先祖調査メモ』>『水府系纂目録』>『せ』)が該当すると思いますが、違うという指摘もあります。 Note 3-4: 芹澤氏が佐竹氏に逐われる1ヶ月前の天正19年2月9日(1591/4/2)には、佐竹氏による「南郡三十三館主一挙生害(南方三十三館の仕置き)」という事件がありました。もし佐竹氏が芹澤氏を強敵と見ていたなら、このときに殺されていたでしょう。下記のとおり、この事件の犠牲者は全て芹澤氏と同じ常陸平氏であり近隣の城主です。翌3月には芹澤國幹が放逐されます。 以下、『歴史年表(PDF)』より引用 天正19年2月9日(1591/4/2) 「南郡三十三館主一挙生害(南方三十三館の仕置き)」 前年、天正18年(1590)7月に後北條氏(小田原北條氏)を倒して全國統一を実現した豊臣秀吉は同年8月に常陸一國を佐竹義重・義宣父子に与えるが、南部の特に鹿行地域には常陸平氏を中心とする侮れない勢力が残存していた。 そこで佐竹義宣は「南郡三十三館」と呼ばれる鹿行の諸氏16人を会盟目的(知行割りを行なうと言ったとも)の梅見の宴と偽って太田城に招き、酒宴中に一挙に殺害した。 犠牲者は、和光院過去帳によれば鹿嶋郡の鹿嶋氏父子・烟田氏兄弟・中居氏、および行方郡の嶋崎氏父子・玉造氏父子・相賀氏・小高氏父子・手賀氏兄弟・武田氏ほか。全員を一挙に斬殺したのではなく、一旦逃れた者がおり、それを追っ手が討ったという説もある。何れにしても、当主ばかりでなく後継者までも抹殺しようとしたことを意味するので、家康に移封させられた秋田に於ける善政の評価とは裏腹に、常陸國南部には現在も佐竹氏への酷評が残る。義宣は間を置かず残る近隣の城主も放逐し、常陸一國の支配体制を確立。 |
東條太田城跡 | 東條氏は約430年という長期間、ここを本拠地としました。 |
『東條太田城跡鳥瞰図』 余湖さんが描いて下さった鳥瞰図に、新たに判明した情報を反映した図です。 |
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『当時の地形』 現在より海面水位が高かったため、このような地形だったようです。東條太田城の南側は湿地の向こうに汽水の内海が迫っていたと想像されます。その当時の『常陸・北下総の荘園公領図』はこちら。 |
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江戸時代とその前後(Note 4-1) 居住地: 江戸,常陸太田市,水戸市 豊臣秀吉勢から逃げるため、天正18年(1590)から江戸に潜伏。水戸藩士~廃藩置県を経て大正9年(1920)まで約290年間在住。 この時代になると、先祖の様子が鮮明に見えてきます。 天正、文禄と時代は流れ、江戸に潜む東條改太田氏初代の助衞門某に慶長11年(推測)(1606)、長男助衞門一有が誕生し太田氏2代目となります。 一有は寛永年中に水戸初代藩主徳川頼房(威公)に細工人太田九藏家として出仕、一有の長男歳勝が『大日本史』の編纂に関わった以外は幕末まで細工人を世襲します。 太田道灌の子孫で徳川家康の側室であり、且つ水戸初代藩主となる頼房の養母でもあった英勝院が自らの菩提を弔う寺を開くため、先祖の地である鎌倉扇谷の太田道灌邸跡地を3代将軍德川家光から譲り受け、寛永11年(1634) 頼房の支援を受け、頼房の姫を玉峯清因として出家させ英勝寺を開いたのが寛永13年(1636)、英勝院が寛永19年(1642)に寂し一周忌に間に合うよう水戸家が伽藍を大々的に整備したのが寛永20年(1643)です。 英勝寺の仏像は鎌倉在住の佛師の作が多いですが、伽藍は鎌倉伝統の様式と違うので鎌倉の宮大工ではなく水戸藩自身が抱えた大工や細工人の仕事であると言われます。下記のように一有は頼房の3男で2代藩主徳川光圀に重用されていますので、そのときの細工人の一人であった可能性があります。 明暦3年(1657)、光圀は史書(後に『大日本史』と称す)の編纂を江戸の駒込別邸に設けた史局で開始、史局は寛文12年(1672)小石川の上屋敷に移って彰考館(通称は史館)と命名されます。 寛文元年(1661)、光圀が2代藩主となり、一有は光國に重用されます。寛文5年(1665)、光圀は明の遺臣朱舜水を招いて師と仰ぎ、父頼房が造営した小石川藩邸を朱舜水と3代将軍家光の助言を得て整備し、一部を後楽園として江戸市民に開放しました。「後楽記事(Note 4-2)」に於いて、書院の庭園から後楽園の入口に設けた唐門扁額の題字は、朱舜水の書を太田九藏(一有)が彫刻したとされ、唐門と扁額は昭和20年の空襲で焼失するまで健在でした。 光圀はまた一有に20歳と50歳の自身の假面と道服姿の塑像を彫刻させました。義公假面は常陸太田市の久昌寺に現存、道服姿の塑像は光圀没後に移された惠日庵で100年間ほど久昌寺住職に守られましたが文化14年(1817)に野火による火災で焼失、天保5年(1834)に水戸9代藩主徳川齋昭(烈公)が再造させて西山荘に現存します。 延寶5年(1677)、一有の隠居により長男歳勝が細工人の職を相続しますが、歩行士に転籍して『大日本史』の編纂をお手伝いしました。 元禄4年(1691)、光圀は12万石の高松初代藩主となっていた兄松平頼重の長子綱條を水戸3代藩主として迎え、譲位して西山荘へ隠棲します。このとき一有は光圀の近臣23名の一人として近傍の白坂に屋敷を与えられ、子の歳勝、その弟で下記東條常言と共に先祖の地である常陸國の土を再び踏むことができました。太田氏にとっては天正18年(1590)に常陸國東條太田を逐われて101年後のことであり、さぞ嬉しかったであろうと想像します。 元祿6年(1693)、隠居の身の一有は光圀に命ぜられ桂村高久(茨城県東茨城郡城里町高久)の鹿嶋神社に祀られる悪路王の頭形を修理しています。 元禄9年(1696)に一有は西山荘近傍の白坂で没します。享年91歳。驚異的な長寿を全うしました。 元禄13年12月6日(1701/1/14)に光圀73歳が西山荘で亡くなると、太田氏3代目の歳勝一家は水戸城下の天王町に引っ越します。西山荘は、3代藩主綱條から藩財政の再建を託された松波勘十郎によって寶永2年(1705)に守護宅以外が廃されました。 一方、太田歳勝の弟常言は祖父の旧姓である東條に復し分家して延寶(延宝)7年(1679)父・兄と同じく水戸藩へ出仕、ここに常陸平氏東條氏が復活しました。東條常言は歩行士から細工人に転籍し、光圀の命で菅原道真木像を制作、光圀は元禄8年(1695)春に常陸國天満宮へ御神体として奉納しました。 常言の孫、東條常房は鎌倉の英勝寺へ寶暦(宝暦)9年(1759)、明和4年(1767)、安永元年(1772)の3回、それぞれ1~数年間出張しました。さらに、英勝寺には私の高祖母きむの祖父、三宅八三郎富盛も水戸藩士として出張しましたので、英勝寺と三宅氏に不思議な縁を感じます。 天保7年9月10日(1836/10/19)、水戸9代藩主徳川齋昭が経費節減を目的として江戸詰の藩士を水戸に移すため「新屋敷」の地を武家屋敷地として再開発しました。この頃の我が家は江戸詰ではありませんが、天保7年9月10日(1836/10/19)から天保10年9月21日(1839/10/27)の間(根拠は、現存する位牌、および過去帳)に天王町から新屋敷の花小路に引っ越します。 花小路に住んだのは大正中期までの84年間です。私自身は茨城県に住んだことがないのですが、私の本籍地は結婚するまで花小路でした。ですから、住んでいなくても懐かしさを覚えます。しかし、ここに住んでいた高祖父は、悲惨な目に遭いました。幕末の天狗争乱に絡む『慶應元年10月25日(1865/12/12)の一件』と呼ばれる事件です。 『先祖調査メモ』>『水府系纂目録』>『お』(太田氏)・『と』(東條氏) Note 4-1: 当サイトの時代定義 ◎江戸時代は、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府が成立した慶長8年2月12日(1603/3/24)を始期とし、最後の将軍徳川慶喜が上表した大政奉還に朝廷の勅許を得た日、すなわち慶應(慶応)3年10月15日(1867/11/10)を終期としています。 そして、慶長8年(1603)~貞享5年(1688)を前記、元禄元年(1688年)~安永10年(1781)を中期、天明元年(1781)~慶応3年(1867)を後期としています。つまり、江戸時代265年間を単純に三等分せず、切りの良い改元の年で区切りました。 Note 4-2: 「後楽記事」 = 元文元年(1736) 源信興著 |
生瀬一揆 | 江戸初期に発生した水戸藩による一村皆殺しという悲惨な事件 |
鎌倉英勝寺 | 德川家康側室英勝院が開く。警備・事務等のため水戸藩士が交替で出張。 |
小石川後楽園 | 水戸初代藩主徳川頼房が中屋敷として造営/2代光圀が上屋敷として整備・完成 |
久昌寺 | 私の先祖が制作した義公木彫面(水戸2代藩主徳川光圀の假面)が現存 |
鹿嶋神社と 悪路王頭形 |
元禄6年(1693) 私の先祖が水戸2代藩主徳川光圀の命で鹿嶋神社に祀られている悪路王頭形を修理 |
常陸國天満宮と 東條常言 |
元禄8年(1695) 分家の東條氏が水戸2代藩主徳川光圀の命で常陸國那珂湊天満宮の御神体を制作 |
『水府系纂』目録 | 水戸2代藩主徳川光圀(義公)の発意で編纂が開始された水戸藩士の系図集 |
大日本史編纂記録 『往復書案』一覧 |
水戸2代藩主徳川光圀(義公)の発意で編纂が開始された『大日本史』の編纂資料抜粋一覧 |
心越禅師と祇園寺 | 水戸2代藩主徳川光圀(義公)が世話をした心越禅師と祇園寺 |
過去帳の一例 | 太田氏が記載されている過去帳合計22枚のうちの1枚 |
『元禄時代の我が家』 常陸太田市新宿町 元禄4年(1691)~元禄13年(1700) 約10年間在住 白坂という場所で、水戸2代藩主徳川光圀の隠居先である西山荘から600m程度です。 |
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『江戸時代中期の我が家』 水戸市備前町(当時は天王町) 元禄13年(1700)~天保7年(1836) 約136年間在住 水戸2代藩主徳川光圀の没後、西山荘近傍から水戸城下のここ天王町に引っ越しました。 |
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『江戸時代後期の我が家』 水戸市新荘3丁目 天保7年(1836)~大正9年(1920) 約84年間在住。天保7年9月10日(1836/10/19)、水戸9代藩主徳川斉昭によって新屋敷が武家地として再開発されると、太田九藏一家は天王町からここ花小路へ引っ越して来ました。 |
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『南西から見た花小路の全景』 水戸市新荘3丁目 撮影者(私)が立っているここから、向こうの突き当たりまでの一直線の道路が嘗ての花小路です。 |
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『花小路 太田九藏宅跡』 水戸市新荘3丁目 (現 F様宅) 4階建てマンションと、その奥のオーナ宅を含む敷地です。茨城県に住んだことのない私ですが、本籍地は結婚するまでこの場所でした。 |
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『新屋敷花小路碑』 水戸市新荘3丁目 由緒ある旧町名を記念するため、昭和61年(1986)2月にこの碑が設置されました。 |
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『新屋敷花小路碑側面』 水戸市新荘3丁目 住居表示により昭和43年(1968)4月を以て花小路の町名は廃止され、5月より旧太田氏宅は新荘3丁目となりました。 |
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『新屋敷楓小路三宅八三郎宅跡の現在』 水戸市新荘2丁目(現 T様宅) 我が家の花小路に隣接する楓小路には、私の高祖母きむの実家三宅氏宅がありました。三宅氏は、天保7年9月10日(1836/10/19)の水戸9代藩主徳川斎昭による再開発・屋敷割り後、我が家とそう変わらない時期に引っ越して来られたと思われます。 |
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『新屋敷楓小路碑』 水戸市新荘2丁目 由緒ある旧町名を記念するため、昭和63年(1988)2月にこの碑が設置されました。 |
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『新屋敷楓小路碑側面』 水戸市新荘2丁目 住居表示により昭和43年(1968)4月を以て楓小路の町名は廃止され、5月より旧三宅氏宅は新荘2丁目となりました。 |
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宮本茶村 | 江戸時代後期の考証学者、歴史家、儒学者、漢学者、漢詩人、教育者。私の先祖調査の恩人。 |
『慶應元年10月25日の一件』死刑申渡状および殉難者名簿 | 慶応元年10月25日(1865/12/12)の夜、天狗争乱に絡んで水戸赤沼牢屋敷で発生した事件です。死罪17名、斬死1名、合計18名が一晩で殺される中、私の高祖父1名だけが永牢でした。 |
太田氏宅も三宅氏宅も約300坪です。大名屋敷は別格としても武家屋敷というのは現代の感覚では広大ですね。上級の家臣は、さらに広大な敷地の屋敷を与えられていました。何れにしても、藩から貸与された社宅(藩宅)です。 太田氏一家は私の曾祖父が亡くなった翌年、大正9年(1920)に花小路から横浜へ引っ越しました。横浜へ引っ越してから、今年()まで、まだしか経っていません。茨城に住んでいた通算900年が、いかに長期間であったかということに感慨を覚えます。稲敷時代の430年間でさえ、あと15世代以上を経ないと到達できそうにありません。たくさんの先祖が必死に子孫を繋げてくれたことに感謝です。 |
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