東條
忠幹、直幹三子、称東條五郎左衞門尉、居信太郡東條(系図)、善和歌(新和歌集 按東鏡(吾妻鏡)寛元四年(1246) 
有忠幹、蓋此人又按今河内郡太田是其拠) 有子曰光幹、
光幹称兵部丞(系図)、亦善和歌(新和歌集 按集中又有 平時幹平幹縄蓋皆同族)、有子、清幹、
清幹称孫五郎、文永中(1264~1275)人(鹿島大使役記(Note 1))、有子、曰宗幹、
宗幹称三郎、弘安中(1278~1288)人(同上(鹿島大使役記))、以後世次名称不詳、
興国二年(北朝暦応三年)(1340)、其族応北畠親房拠城、高師冬党攻之、挙族出降(別府文書白河文書)、
正平十七年(北朝貞治元年(1362) 鹿島大使役記)、正平二十一年(北朝貞治五年)(1366)、並有能登守(香取応安海夫注文)、
弘和二年(北朝永徳二年(1382))、有太郎(烟田文書)、
族有高田氏、応永十一年(1404)、為鹿島大使(大使役記 按関東兵乱記
嘉吉元年(1441) 結城城陥 土岐秀成 按龍崎右京高田太夫新発意太夫 或是東條族)
文安元年(1444)八月飯尾彦六左衞門尉為東條近江守書 貞永式目相伝 近江守信太東條人 果然則当時又近江守)
弘治中(1555~1558)、有英幹、称左近将監、有子曰英重、英重居泉(馴馬宝塔寺九輪塔題名)、
天正中(1573~1592)、有幹要、称兵庫(天正十六年(1588)三月誓書(または𦾔(旧)書)(Note 2))、
後子孫更氏太田(太田九藏系図 按鹿島郡鉾田石崎氏藏

直幹
長男 多気太郎義幹
次男 下妻四郎弘幹
三男 東條五郎左衞門尉忠幹
『常陸誌料』全35巻のうち『諸族譜』の『平氏譜 一』より東條氏の部分抜粋  宮本茶村編纂  国立公文書館蔵

【翻刻】
東條
忠幹、直幹三子、称東條五郎左衞門尉、居信太郡東條
(系図)、善和歌(新和歌集 按東鏡(吾妻鏡)寛元四年(1246) 有忠幹、蓋此人又按今河内郡太田是其拠)有子曰光幹、光幹称兵部丞(系図)、亦善和歌(新和歌集 按集中又有 平時幹平幹縄蓋皆同族)、有子、清幹、清幹称孫五郎、文永中(1264~1275)(鹿島大使役記)、有子、曰宗幹、宗幹称三郎、弘安中(1278~1288)(同上(鹿島大使役記))、以後世次名称不詳、興国二年(北朝暦応三年)(1340)、其族応北畠親房拠城、高師冬党攻之、挙族出降(別府文書白河文書)、正平十七年(北朝貞治元年(1362) 鹿島大使役記)、二十一年(北朝貞治五年)(1366)、並有能登守(香取応安海夫注文)、弘和二年(北朝永徳二年(1382))、有太郎(烟田文書)、弘治中(1555~1558)、有英幹、称左近将監、有子曰英重、英重居泉(馴馬宝塔寺九輪塔題名)天正中(1573~1592)、有幹要、称兵庫(天正十六年(1588)三月誓書)、後子孫更氏太田(太田九藏系図 按鹿島郡鉾田石崎氏藏(Note 1) 文安元年(1444)八月飯尾彦六左衞門尉(Note 2)為東條近江守書 貞永式目(Note 3)相伝 近江守信太東條人 果然則当時又近江守)
 族有高田氏、応永十一年
(1404)、為鹿島大使((鹿島)大使役記 按関東兵乱記 嘉吉元年(1441) 結城城陥 土岐秀成 按龍崎右京高田太夫新発意太夫 或是東條族)

翻刻: 太田 修 (上記の
赤文字部分が、東條氏と我が家(『太田氏系圖(PDF)』)がつながる部分です。)

Note 1: 鉾田町史編纂室(当時)の先生によれば、鉾田の石崎氏は吉見氏に改姓されたそうです。さらに、「石崎氏から改姓した吉見氏方に現在は『太田九藏系図』も『貞永式目』も伝わっていない」とご教示下さいました。宮本茶村が参照した『太田九藏系圖』は、江戸後期以降に散逸してしまったようです。『太田九藏系圖』を石崎氏が所有していた理由は不明です。
Note 2: 『飯尾彦六左衞門尉為東條近江守書』の飯尾氏は、約33年後に「應仁(応仁)の乱」(Note 4)で焼け野原となった京都の惨状を哀れんで、「汝(なれ)や知る 都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)あがるを見ても落つる涙は」と詠んだ飯尾彦六左衞門尉常房と思われますが、飯尾氏と常陸國との繋がりは不明です。
飯尾彦六左衞門尉常房 = 阿波國守護であった細川成之の家臣であり、斉藤道三の父と言われる(異説あり)。文明17年閏3月23日(1485/5/7)没。64歳。
Note 3: 貞永式目 = 御成敗式目: 1232年(貞永1)北条泰時が承久の乱後の当面する政治・法制の諸問題に対処するために編纂した51ヵ条の法典。室町時代に至るまで武家の根本法となる。江戸時代には習字手本として民間に普及。貞永(じょうえい)式目。(広辞苑)
Note 4: 応仁の乱 = 応仁元~文明9年(1467~77)足利将軍家および管領畠山・斯波両家の相続問題をきっかけとして、東軍細川勝元と西軍とがそれぞれ諸大名を引き入れて京都を中心に対抗した大乱。京都は戦乱の巷となり、幕府の権威は全く地におち、社会・文化を含めて大きな時代の画期となった。応仁文明の乱。(広辞苑)

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