水戸天王町 江戸時代中期の我が家

『江戸時代中期の我が家』  水戸城下天王町  Googleマップ 水戸市備前町  元禄13年(1700)~天保7年(1836) 136年間在住
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黄色の部分に「天王」とある牛頭天王社)がこの地に存在したのが貞享4年(1687)から天保14年(1843)(この年に別の場所へ遷座)の間、その斜向かいに太田九蔵宅が存在するのが元禄13年(1700)から、天保7年9月10日(1836/10/19)(遅くとも天保10年9月21日(1839/10/27)(
Note 1)まで)です。したがって、この地図は元禄13年(1700)から天保7年9月9日の間のものであると言えます(厳密に言わなければ)。
この頃の我が家の住所は天王町でした(Note 1)。天王町という地名は現存しますが区画割が変わったようで、太田九藏宅の場所は現在は備前町5丁目です。
なお、水戸城は右上の方向です。上級家臣のお屋敷は、よりお城に近く、広大な敷地です。

元祿13年(1700)に水戸2代藩主徳川光圀(義公)が西山荘で没すると、太田九蔵歳勝一家(
Note 2)は西山荘近傍からここ天王町に転居してきました。ここ天王町には136年間という長期間住みました。
天保7年(1836)9月10日、水戸9代藩主徳川齋昭(烈公)によって新屋敷が武家屋敷地として再開発されると、太田九藏歳松一家は遅くとも天保10年9月21日(1839/10/27)(Note 1)までに新屋敷花小路へ転居します。

Note 1: 神應寺過去帳によります。
過去帳には、例えばこちらのように死亡年月日と戒名が記されており、俗名、住所、誰かとの続柄も記入されことがあります。この例では太田九藏としか記されていませんが、享保9年に亡くなったのは太田九藏歳勝であることが分かっています。
なお、お寺の過去帳はお寺にとっての時系列で追記されて行きますので檀家全てが一緒に記されます。そこで、最近のように個人情報保護云々の時代になると、「檀家以外には開示しない」という方針になってしまうのは仕方がないのかもしれません。
Note 2: 徳川光圀(義公)の時代に太田九藏歳勝の弟が分家し、祖父の旧姓である東條に復して東條常言と称し、兄と同じく細工人として新規に取り立てられました。ところが地図を探しても東條家が見つかりません。もしかすると太田家と同居していたのかな?と推測しております。太田歳勝/東條常言兄弟の父、太田九藏一有が義公に重用されていた頃の話です。

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