水戸花小路 太田九藏宅跡

『花小路 太田九藏宅跡の現在』 (現 F様宅)  新屋敷花小路 = 水戸市新荘3丁目 Googleマップ 花小路   天保7年(1836)~大正9年(1920) 84年間在住  2002年4月撮影
カメラ機種名: Fuji Film FinePix4500, レンズ: カメラ内蔵 35mm換算36mm固定

水戸9代藩主徳川齋昭によって天保7年9月10日(1836/10/19)に屋敷割りが成されると、天王町からここへ引っ越しました。(
Note 1)
引っ越し当初は、太田九藏歳松(太田氏7代目)/千賀夫妻と、子の九藏藏吉歳就(くぞう くらきち としなり)(太田氏8代目)、その姉が住みました。藏吉は数軒先三宅八三郎家から五女のきむを妻として迎えます。きむは私の高祖母です。
やがて、太田氏はこの地で存亡の危機を迎えます。
藏吉は、藩政改革を強行する齋昭から家紋大小(PDF)を下賜されますので改革派側に身を置いたようです。
齋昭亡き後、藏吉は天狗争乱(天狗党の乱)(
Note 2)に絡み保守・門閥派(諸生派)が改革派残党を一気に抹殺した事件『慶應元年(1865)10月25日(1865/12/12)の一件』に連座して赤沼牢に投獄され、幕府の介入で自宅謹慎になったと思われますが慶応3年に亡くなりました。これによって、長男捨吉(太田氏9代目)を抱える妻のきむの生活は困窮します。
しかし、きむは頑張り続け、太田氏存続の最大の功労者となりました。実家の三宅氏から物心両面の多大な援助を受けたことは想像に難くありません。
きむ捨吉を育て上げ、備前町の日高家からゑい捨吉の嫁に迎え、孫()の成長を見届けるかのように、大正7年に85歳で亡くなります(
Note 3)。
捨吉もまた努力しました。父の藏吉が亡くなったときは弱冠4歳です。我が家には「捨吉はたいへんな勉強家・努力家だった。それが原因で過労死した。」という口碑が残ります。
母きむの庇護の下、成人した捨吉は警察官となります。「初代水戸警察署長になった」という口碑もあるのですが、水戸警察署で見せていただいた歴代署長の名簿では確認できませんでした。どういうわけか、その名簿には「初代」とされる人の前にもいくつかの氏名が記されています。それらの中にも「太田」はありませんでした。
しかし、対応して下さった島田警部補から「初期には混乱があったので、間違いだと断定することはできない。位牌にある『勲八等』から調査したらどうか?」とのサゼッションを賜わりました。そこで、国立公文書館に行って叙勲者リストを調査してみましたが、よく分かりませんでした。定年後にリトライしてみます。
制服の金ボタンと、仕事に関する捨吉自筆のメモが残っていますので、水戸の警察官であったのは確かです。捨吉は、母きむが亡くなった翌年(大正8年(1919))、母の後を追うように56歳で没しました。口碑では「過労死」です。
ところで、捨吉の長男であり私の祖父である(太田氏10代目)は、私修(太田氏12代目)が19歳のときに横浜の鶴見で亡くなりました。の祖母きむが亡くなったとき、は26歳になっていましたから花小路の様子はもちろん、きむのことも、きむの実家三宅氏との交流の様子も鮮明に覚えていたはずです。それなのに、先祖への興味など微塵もなかった当時の私は、自分からは何も聞かなかったことをたいへん後悔しています。
は祖母きむ、父捨吉を相次いで亡くし、大正8~9年(1919~1920)に母ゑい、弟と3人で横濱へ転居します。
茨城県に住んだことがない私ですが、本籍は結婚するまで上の写真の場所でした。

Note 1: 当家の引っ越しは、屋敷割りが成された天保7年9月10日(1836/10/19)から天保10年9月21日(1839/10/27)までの間です。なぜなら位牌と過去帳の住所が、この間に天王町から新屋敷花小路に変わっているからです(『歴史年表(PDF)』参照)。
天狗争乱(
Note 2)で高祖父藏吉も巻き込まれた『慶應元年10月25日(1865/12/12)の一件』と、明治維新後まで続いた大混乱、高祖母きむの死、曾祖父捨吉の一生、祖父温とその弟茂の誕生と成長までの全てがこの場所での出来事であることから、この土地そのものへも愛着を覚えます。
そう感じてここを何回か訪れました。平成17年(2005)には偶然、現在お住まいのF様ご家族全員とお会いできるという幸運に恵まれました。突然「昔、ここに住んでいた」などという変な人間(私と妻の2人)が現われたにもかかわらず、水戸市議会議員のF様は真剣に私の話を聞いて下さり、三宅氏をよくご存じであること、この土地はF様の前にもう1代どなたかが住まれたことなどをご教示下さいました。
Note 2: 幕末の水戸藩は、凄惨な内乱状態にありました。天狗争乱は、水戸藩が諸生派(保守・門閥派)と天狗党(当初は藩政改革派、後に尊攘過激派)に二分されて互いに殺し合う(老若男女を問わず、それらの家族をも含む)という、藩士にとって最大の悲劇でした。天狗争乱は、長倉こつねさんの『DL新八』に極めて詳細で豊富な情報が、且つ整理して掲載されています。
藩士にとっては天狗争乱(子年のお騒ぎ)が最大の悲劇ですが、しかし水戸領民にとっては水戸藩成立初期に起きた小生瀬の村民皆殺し事件(生瀬一揆)が最大の悲劇であると、私は思います。
Note 3: きむの、苦労の連続(太田家での苦労の前にも大きな悲劇に見舞われた経験があります)の一生を思い、実家三宅氏からの援助を考えると、きむはもちろん三宅氏ご一家への感謝の念で胸がいっぱいになります。
そんなおりもおり、平成16年(2004)に三宅氏のご後裔から e-mail をいただいたときには、一瞬自分の目を疑いました。そして、「天狗後の混乱も乗り切られて無事だったんだ!」と、たいへん嬉しく、安心しました。
また、先祖の親戚(すなわち現在も遠い親戚)、私の先祖調査に於ける恩人のご後裔からもご連絡を賜わっています。皆さま、ありがとうございます。

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