『慶應元年十月廿五日夜於牢屋敷死刑申渡状』
『慶應元年十月廿五日夜於牢屋敷死刑申渡状』 太田 修(本サイト開設者) 所蔵 (445mm x 150mm, 1枚もの)  画像をクリックすると大きい画像ファイルが開きます。

※永牢の太田氏(左端)(私の高祖父)が「大田藏吉」となっており、下の『南梁年録 巻87』では「太田九蔵」です。フルネームが「太田九蔵藏吉歳就」ですので、両者は同一人物です。
※私は「大田藏吉」以外の文字をほとんど読めませんが、死刑の方々の順番と人数が下記『南梁年録 巻87』とは異なります。氏名も数名が異なっているように見えます。(
Note 1)
※右方には、「十月廿五日夜於牢屋敷・・・揚屋・・・武田伊賀(耕雲齋)・・・死刑申付者也」と、諸生派側の処罰理由が述べられているようです。

『慶應元年十月廿五日の一件』殉難者名簿
『慶應(慶応)元年10月25日の一件』殉難者名簿
慶應元年十月廿五日夜於牢屋敷死罪
元若年寄 岡田新太郎
同人叔父 岡田損藏
美濃部又五郎
平太郎事 三浦贇男
岡部城之介
忠藏次男 岡部雅樂吉
元大番 武藤善吉
那須寅藏
小山田任之允 
高橋重太夫
有賀半蔵
柿栖次郎衞門 
齊藤市右衞門 
信平倅 津田豐太郎
吉見喜代八郎 
安藤木工之進 
小林六衞門
寺社方勤元締 斬死 水野哲太郎
御細工人 永牢 太田九藏
出典: 『南梁年録 巻87』(小宮山南梁編纂 国立国会図書館蔵)の一部

                        
                        
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   46         35 29   39 23 35 24 23 24 50   20 60 47 22 26  
翻刻出典: 『茨城県史料 幕末編Ⅲ』(茨城県発行 茨城県歴史館編集)より転記(一部加筆・修正(赤文字部分))(数字は年齢)

『死刑申渡状』の「永牢 大田藏吉」と、『南梁年録 巻87』に於ける「永牢 細工人 太田九藏」は同一人物で、私の高祖父太田九藏藏吉歳就46歳(推定)です(Note 1))。
我が家の口碑は、「藏吉は天狗争乱で悲惨な目に遭った。藏吉が(慶應元年十月廿五日夜の一件に)連座させられたのは妬みからの讒言による。」です。
このとき、妻のきむ(私の高祖母)は32歳、長男捨吉(私の曾祖父)は2歳(満1歳)でした。きむは大正7年(1918)、捨吉は大正8年(1919)まで生きますから、この頃の状況は捨吉はもちろん、その妻ゑい(私の曾祖母)、そして子の(私の祖父)、弟の茂(私の大叔父)にも詳細に伝わっていたはずです。私が全く興味を示さなかったことから(幼児でした)、曾祖母のゑいからはもとより、祖父のからも大叔父の茂からも当時の様子を直接聞いたことがなかったのが凄く残念です。我が家の口碑を含む当時の状況は、私の母の葬儀のときに大叔父の長女から初めて聞いて驚きました。その時点では、天狗争乱が私自身のことだなんて想像もできませんでした。
藏吉は、水戸9代藩主徳川齋昭(烈公)から家紋大小(PDF)を下賜されたことを周囲から妬まれたのでしょうか。藏吉は天狗党構成員ではなかったようですが、齋昭に取り立てられたことから少なくとも改革派側に身を置いていたはずです。
赤沼牢屋敷の場所には佐竹氏の時代から牢があり、処刑は吉沼や千束原で行なわれたそうです。しかし、幕末の諸生派と天狗党の争乱期には、ここ赤沼牢屋敷内でも処刑が行なわれました。ここで処刑された者、300余と言われ、上記の18名も含まれます(『死刑申渡状』と『南梁年録 巻87』には若干の齟齬があります)。Googleマップ 元禄時代の我が家

『慶應(慶応)元年10月25日(1865年12月12日)の一件』
同年2月から4月に天狗党の主力を壊滅させた諸生派が、生き残った藩政改革激派と、さらには鎮派(ちんぱ)までも一気に抹殺するため水戸赤沼牢屋敷に於て、この日の夜に決行した暴挙であり、犠牲者は上の名簿のとおり死罪17名、斬死1名、そして永牢1名です。
この事件は幕府にも衝撃を与えました。「幕府は水戸藩内の動揺を憂慮して穏健政策に転じ、水戸10代藩主德川慶篤は遠山熊之介重明を側用人見習いに抜擢。幽囚人を自宅謹慎とし、遠山ら鎮派を藩政に参加させて藩政刷新を目論んだ」とのことです。しかし、うまくは行きませんでした。
藏吉は、2年後の慶応3年(1867)に48歳(推定)で没しました。幕府の介入により自宅謹慎となった後に没したと思われますが、享年が48歳(推定)という若さを考えますと政治犯として投獄されたことによる心身へのダメージが寿命を縮めたのは確かです。

『天狗争乱(天狗党の乱)』
a) 水戸藩の改革激派(尊攘過激派)を主たるメンバーとする天狗党と、対して同じく水戸藩の保守・門閥派を中心とする諸生派に分かれて殺し合い、終熄するまで5年間に亘った凄惨な抗争。「天狗党の乱」、また元治元年(甲子)の挙兵ということから「元治甲子の争乱」または「子年のお騒ぎ」とも称される。当初は水戸藩士同士の内乱だったが、領民や他藩士も巻き込んで拡大した。
元治元年(1864)3月27日、天狗党の藤田小四郎らが筑波山に挙兵。朝廷に攘夷を訴えるため、水戸藩出身の一橋慶喜を頼り北陸経由で京都を目指して西上。各地で転戦しつつ進軍する。
しかし、同年12月、一橋慶喜に見捨てられたことを知って加賀藩に投降。鰊倉に収容される。幕府若年寄田沼意尊の命により翌慶應元年(1865)2月、敦賀で合計352人が、3月には水戸で武田耕雲齋の家族が、そして4月には常陸の古河で29名が、それぞれ斬首される。さらに諸生派は駄目押しとして、残る改革派を一掃するため「慶應元年10月25日の一件」を決行した。殉難者には、鎮派(ちんぱ)と呼ばれる穏やかな改革派までもが含まれる。(『歴史年表(PDF)』に時系列で詳述)
しかし、諸生派の世も長くは続かず、諸生派の後ろ盾になっていた幕府が明治元年(1868)の戊辰戦争で敗退すると、天狗党が水戸藩政を奪還。今度は天狗党が諸生派への復讐を開始。明治2年(1869)2月26日に市川三左衞門弘美が潜伏中の江戸で捕縛され、同年4月3日処刑「叛逆無道重々不届き至極大胆の致し方に付、後昆の誠として上下御町引き回し生き晒しの上、長岡原に於て逆磔に行ふ者也」。これを以て天狗争乱終熄。

ただ、終熄したとは言え諸生派側の人達は天狗一色となった水戸には長期間戻れなかったそうです。
逸材の藤田東湖や戸田銀治郎忠敞を「安政の大地震」で失い、「よかろう候」の水戸10代藩主徳川慶篤や附家老の中山備中守信微では争乱を全くコントロールできず、幕府でさえ右往左往する中で相互に復讐を繰り返して敵対感情が暴走状態に陥ったわけで、諸生派も自己の既得権益を守るためだけで戦ったわけではないでしょう。
天狗争乱は、諸生派と改革派の後裔が悲しみを共有すべき水戸藩史上最大の悲劇(Note 2)です。水戸では、いまだに両派のご子孫の間に蟠りが残るそうです。子孫間の対立は、何としても解消したいものです。茨城に住んだこともない私が、そんなことを言うのは僭越ではありますが、我が家は高祖父母の代に諸生派と改革派、両派に接点があることからも、子孫の私は何れにも敵対心を抱き得ません。私自身は中立の立場です。そこで、私個人の名刺には「水戸藩士裔 天狗・諸生両派」と記して、水戸藩に関係する方とお目にかかるときに備えています。既に10枚ほどを使いました。

b) 天狗党 = 藩政改革派?  必ずしもそうではないが、藩政改革派の、中でも尊攘激派の人達の多くが天狗党に参加した。
  諸生派 = 保守・門閥派? ほぼ
Yes
ただし天狗党も諸生派も、多くの下士を取り立てて自派に取り込んでいた。
注) 天狗党に対立した諸生
は、諸生と呼ばれることがありますが、自ら「諸生」と称することはなかったようです。天狗党は、諸生らが蔑視して「天狗になっている」と呼んだ蔑称を逆手にとって党名としたのだそうです。

c) 当初は藩政改革を目的に集合した天狗党だが、筑波山で挙兵したときには既に幕府に攘夷を実行させることが目的になっていた。

d) 水戸2代藩主德川光圀時代から水戸藩で育まれた「水戸学」が薩長土肥へ影響を与え、明治維新の大きな原動力となった。
  惜しむらくは、せっかく水戸が維新の魁になったのに、天狗争乱で改革派、保守・門閥派ともに逸材を失って維新政府に参画させる人材が枯渇し、慶應3年(1867)11月15日には土佐の坂本龍馬が京都近江屋で京都見廻組(諸説あり)に暗殺され、結果的に維新政府は薩長、取り分け長州の「いいとこ取り」になったとされる。

Note 1: 『死刑申渡状』と『南梁年録 巻87』に於いて、死罪(死刑)の部分は人数が前者では16名、後者では17名です。氏名も数名が異なっているように見えます。しかし、本件は私にとって重過ぎる問題ですので当面は深入りせずに置いておきます。
Note 2: 水戸領民にとっては、天狗争乱もさることながら「生瀬一揆」が最大の悲劇であると、私は思います。

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