『(旧)明野町東石田標識と筑波山』 常陸國真壁郡石田 = 茨城県筑西市(旧 真壁郡明野町)東石田 2002年4月撮影 昌泰元年(898)~承平5年(935) 37年間在住(上総國在住期間含む) カメラ機種名: Fuji Film FinePix4500, レンズ: カメラ内蔵 35mm換算36mm固定 真壁郡明野町は合併により2005年3月28日から筑西市になりましたので、この標識は変更されたと思います。 この一帯は平國香(たいらのくにか)の本拠地です。私も子孫ですが、一番有名な子孫は近畿・畿内で興隆を果たして平氏本流の伊勢平氏となり平家を名乗った棟梁の平清盛でしょう。 國香の父、高望王は寛平元年(889)(または同2年(890))平姓を賜わって平高望(たいらのたかもち)となりました。平高望は寛平元年(889)12月(または昌泰元年(898))に上総介に任じられて、長男國香、その弟らと共に京都から上総國へ下向して来ます。やがて平國香は女(むすめ)を常陸大掾(ひたちのだいじょう)源護(みなもとのまもる)の男(むすこ)に嫁がせて姻戚関係を結び、ここ常陸國真壁郡石田(現茨城県筑西市東石田)に本拠を移します。 國香の甥の平将門は所領争いと女論から源護(みなもとのまもる)、そして同族の平氏一族と争いになり、源護に味方した國香は承平5年(935)、将門に殺されます(東石田の館に火をかけられ自殺)。 その将門は、藤原秀郷の支援を得た國香の長男、平貞盛によって天慶3年(940)に誅殺されます。2件の『天慶の乱』の一つ『平将門の乱』については『歴史年表(PDF)』(承平元年(931)以降)に詳しく載せていますので、ご参照下さい。もう1件の『天慶の乱』は、瀬戸内海の『藤原純友の乱』です。 『平将門の乱』は、将門が新皇を名乗って朝廷と敵対したため朱雀天皇が密勅を発して寬朝大僧正を派遣し将門追討を祈願させるほど朝廷を震撼させました。将門が誅された後、寬朝大僧正は将門追討を祈願した地に成田山新勝寺を開いたそうです。 難しい話しですが、殺された私は将門を恨むことを躊躇する感情があります。将門が京で藤原忠平に仕えていたときに父が亡くなった後、遺領を親戚が寄ってたかって横領したそうです。そうなれば将門は反撃せざるを得ないことは理解できます。以後、田畑の荒廃が100年も続いたとのことです。 |
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