ある除籍謄本の一部

『ある除籍謄本の一部』
前戸主 = 太田(九藏)藏吉(歳就)(私の高祖父)  戸主 = 太田捨吉(私の曾祖父)  捨吉の母 = 太田きむ(三宅八三郎五女)(私の高祖母)  太田温(私の祖父)
きむの実家三宅氏にも関わりますので、個人情報を一部消去しています。

私の高祖父藏吉と同じ水戸藩士で我が家から僅か70mの三宅八三郎家から藏吉に嫁いで来たきむは、長男捨吉が2歳のときに夫の藏吉が『慶應(慶応)元年10月25日(1865/12/12)の一件』に連座して赤沼牢に収監され、幕府の介入で自宅謹慎となったと思いますが、2年後に亡くなったため生活苦に陥ったはずです。
この困難な時代、すなわち幕末から維新の動乱期に太田家が存続できたのは、一重にきむのお陰です。我々子孫は、苦労の連続だったきむと、実家の三宅八三郎家に深く感謝しています。

ところで、豊臣秀吉の臣下として讃岐一国17万3千石を領する生駒氏は、江戸時代に至って寛永9年(1632)から続いたお家騒動(生駒騒動)を幕府から罰せられ、寛永16年(1639)に出羽矢嶋藩1万石へ減知転封処分となりました。その後、近隣3藩の預領となっていた東讃岐へ寛永19年(1642)に水戸初代藩主徳川頼房の長男松平頼重(光圀の実兄)が入って、新たな高松藩12万石の初代藩主となります。
生駒氏に仕える三宅盛明の弟、富盛が三宅八三郎家を興して明和元年(1764)に水戸藩に出仕しました。やがて富盛の孫娘きむが太田藏吉と結ばれるのは、連枝である高松藩と水戸藩のご縁によるものと言えます。

我が家には、「藏吉が『慶應(慶応)元年10月25日(1865/12/12)の一件』に連座したのは妬みからの讒言による」との口碑が残っています。水戸9代藩主徳川齋昭に取り立てられたことを妬まれたのでしょうか?
藏吉は、天狗党の構成員ではなかったようですが齋昭から家紋大小(PDF)を賜わっていますので、改革派側にあったのは確かです。
きむは、水戸の神應寺(神応寺)から横浜市営日野公園墓地へ昭和44年(1969)3月19日に改葬した太田家墓に眠っています。それは現存する最古のお骨で、後から入ってくる人々を見守っているように思えます。
改葬の理由は「水戸は遠いので墓参りに行けないから」でした。水戸から横濱に転居してきた祖父が、そう言っていました。昭和40年代の水戸は確かに遠い存在でしたが、平成9年(1997)以降、先祖調査のために車で何度も訪問した経験から、今なら決して遠くありません。それどころか、先祖調査で水戸との深い関わりを知ったいま、水戸はたいへん身近な場所になりました。
なお、日野公園墓地は我が家から徒歩1時間です。お彼岸は車が進入禁止になることもあって、ウォーキングを兼ねて墓参りをしています。

Note: 上市(うわいち)
除籍謄本の住所が「茨城縣水戸市大字上市花小路」となっています。上市と呼ばれるのは明治以降で、その前は上町(うわまち)と呼ばれていました。
慶長14年(1609)12月、徳川徳川頼房が水戸初代藩主になると、領内の総検地、家臣団の増強、水戸城の大規模な修築、城下町の拡張と整備を行ない、水戸城の修築は寛永2年(1625)に開始、寛永15年(1635)に完了。その後、明治2年の廃藩まで大きな改築は行なわれなかったため、当時の状態が保たれました。
城下町を東へ拡張するため、元和8年(1622)頃に仙波湖東岸の低湿地を埋め立て、田町と呼ばれました。ここを町人町とするため寛永2年(1625)から同3年(1626)に城の西側の大町、中町、南町の町人を移住させました。これを田町越(たまちごえ)と言い、これ以降、柵町門、杉山門の東を下町(したまち)、西を上町(うわまち)と呼んだそうです。

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