『太田道灌(Note 1)邸跡の石碑』 鎌倉市扇ガ谷1-16-3 平成21年(2009)7月5日撮影 【翻刻】 太田道灌邸舊蹟 此ノ地ハ武略文藻兼ネ備ヘ 忝クモ 武蔵野は萱原の野と聞きしかど かかる言葉の花もあるかな テフ叡感ニサエ預リタル道灌太田持資ガ江戸築城前ノ邸址ナリ 寛永十一年今ノ英勝寺ト為ル其ノ創立者水戸藩祖頼房ノ准母英勝院ハ道灌ノ嫡流太田康資ノ女ナルヨリ晩年将軍家光ヨリ特ニ此ノ地ヲ授リテ之ニ住スルニ至レルナリ 孤鞍雨ヲ衝イテ茅茨ヲ叩ク少女為ニ遣ル花一枝ノ詩趣アル逸話(Note 2)ハ道灌ガ壮年猶此ニ在リシ日ニ於テ演ゼラレシ所ノモノナリ 大正十年三月建之 鎌倉町青年會 太田道灌が、江戸城を築くまでここ(現在の英勝寺)に屋敷を構えていたと言われます。 英勝寺惣門前広場の、惣門に向かって右端にこの碑があります。 Note 1: 太田道灌持資((諱は資長)永享4年(1432)-文明18年7月26日(1486/8/25)) 摂津源氏(広くは清和源氏)で、治承4年(1180)源頼朝に先んじて以仁王(もちひとおう)と共に平家に挙兵した源三位頼政(げんさんみ よりまさ)の子孫です。 我が太田氏は常陸平氏ですから太田道灌との直接的な接点はありませんが、江戸時代の職場の上司には道灌のご後裔がおられました。英勝寺の開基英勝院と水戸藩との深い関係から、英勝院の兄太田重政(重正)男の正重以降が代々水戸藩の家老を務めたそうです。 Note 2: 山吹伝説 太田道灌が鷹狩りの際、にわか雨に遭ったとき、貧しそうな家に駆け込み少女に蓑を貸して欲しいと頼んだところ、少女は黙って山吹の花一輪を差し出した。その意味が理解できない道灌は怒って居館に帰り、そのことを話すと近臣から「それは、後拾遺集にある醍醐天皇の皇子兼明親王の歌『七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだになきぞかなしき(原文は「あやしき」)』を意味し、『実の』を『蓑』に例え、蓑一つもないことを訴えたのでしょう。」と指摘された。以後、道灌は歌道に精進するようになったという逸話で、比定される場所は十数カ所あるとされ、横浜市金沢区、埼玉県入間郡越生、東京都豊島区・新宿区・荒川区等、諸説があります。 [語句説明] 広辞苑によれば、つぎのとおりです。 ◎太田道灌(おおたどうかん) = 室町時代の武将・歌人。扇谷(おうぎがやつ)上杉定正の臣。名は資長。俗に持資(もちすけ)。築城・兵馬の法に長じ、学問・文事を好んだ。定正に謀殺された。(1432~1486) ◎准母(じゅんぼ) = (天皇の母に准ずる意)多く内親王に皇后または院号を賜る時の称。 ◎開基(かいき) = ①物事のもといを開くこと。平家物語(5)「朝廷-の後、数千余歳のあひだ」 ②寺院または宗派を創立すること。また、その僧。開山。開祖。 ③寺院創建の際、経済面を負担する世俗の信者。この意味では開山と対になる。 |
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