鎌倉英勝寺 ★私が英勝寺に関心を抱く理由は、下記のとおり江戸時代に複数の親戚が水戸から英勝寺へ出張したことと、直系の先祖が英勝寺の彫刻を手掛けた可能性があるからです。 |
浄土宗 東光山 英勝寺(えいしょうじ) 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-16-3 開基: 英勝院(えいしょういん) 開山: 清因尼(せいいんに) 江戸初期の寛永13年(1636)、太田道灌(Note 1)邸跡地に英勝院が開きました。現在では鎌倉唯一の尼寺です。 ★2013年5月17日、文化審議会が英勝寺の仏殿(扁額を含む)・山門(扁額を含む)・鐘楼・祠堂(墓塔を含む)・祠堂門を国重文に指定するよう文科相に答申し、同年8月7日に官報にて告示されました。 徳川家康と英勝院 天正18年(1590)、豊臣秀吉の天下統一が成ると、徳川家康は関東に移封させられます。江戸に入った家康は、在地旧勢力の懐柔策として名家の子孫を積極的に登庸し、太田道灌(資長)の後裔も含まれました。このとき、道灌の曾孫太田新六郎康資の男(むすこ)(異説あり)重政(重正)(資綱)が京都にいたため、天正5年11月9日(1577/12/18)生まれの妹(実の兄妹ではないとする説あり)お八が家康に謁見します。 13歳ながら聡明なお八は36歳も年上の家康に見込まれ、後に側室となってお梶と改名し家康の寵愛を受けることになります(家康に謁見する時点でお梶に改名したとも)。 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに、23歳のお梶は男装で家康の供をして西軍に勝ち、お梶が供をする度に「勝つ」ので家康から「勝」と改めるように命ぜられたと言われます。その後、大阪の陣にも男装で家康に随行しています。このお勝が、後の英勝院です。 英勝院と英勝寺 この項は、時系列で記述いたします。 ◎天正5年11月9日(1577/12/18)、於八(後の英勝院)誕生。 ◎慶長8年2月12日(1603/3/24)、德川家康が征夷代将軍となり江戸幕府成立。 家康は徳川家による将軍職世襲を確実なものにするため、先ず3男秀忠の右近衞大将任官を奏上。これは、秀忠の徳川宗家相続を確たるものにすることが目的とされる。 ◎同年4月16日(1603/5/26)、秀忠が右近衞大将に任じられる。 ◎同年8月10日(1603/9/15)、お万の方が家康の11男鶴千代(長じて水戸初代藩主徳川頼房)を出産。 ◎慶長9年7月17日(1604/8/12)、江が德川秀忠次男(長男長丸は早世)の竹千代(長じて3代将軍德川家光)を出産。乳母は福(後の春日局)。 ◎慶長10年4月7日(1605/5/24)、家康が秀忠を2代将軍にすることを奏上。 ◎慶長10年4月16日(1605/6/2)、秀忠の2代将軍が認められ、家康は大御所と呼ばれる存在となる。 家康が僅か2年で将軍職を秀忠に譲ったのは、徳川家による将軍職世襲を全国諸大名に周知するためと言われる。 ◎慶長11年(1606)、お勝の兄重政(重正)の男太田資宗が7歳で家康に拝謁。 ◎慶長12年1月1日(1607/1/28)、30歳のお勝が家康最後の子となる6女の市姫を出産。 ◎慶長14年12月12日(1610/1/6)、家康が鶴千代を水戸25万石(元和8年(1622)に28万石)の初代藩主とする。 ◎慶長15年閏2月13日(1610/4/6)、市姫が夭逝。 憔悴したお勝を不憫に思った家康は、お勝を鶴千代(他に結城秀康次男松平忠昌、池田輝正女(むすめ)振姫)の養母とする。お勝はまた、幼い家光をも心を尽くして面倒を見る。 ◎慶長16年(1611)、鶴千代が元服して松平頼房と称す。 ◎元和2年4月17日(1616/6/1)、家康没。 これを機に、39歳のお勝は出家して英勝院と号す。 ◎元和9年7月27日(1623/7/27)、家光が3代将軍となる。 家光が将軍になれたのは、英勝院(当時のお勝)が家光の乳母福(春日局)を家康に謁見させたことと、2代将軍秀忠が次の将軍を家光の弟國松(後の忠長)にしようと考えたとき長幼の序を説いて家康を動かしたお陰と言われ、英勝院は家光にとって頭が上がらない存在となる。 ◎寛永11年3月16日(1634/4/13)、57歳の英勝院は自身の先祖の地、つまり太田道灌が江戸に築城するまで居住した鎌倉扇谷(おうぎがやつ)の地を家光から寄進される。境内地は銭貫高換算5貫359文。 ◎寛永12年11月23日(1635/1/1)、扇谷の地に英勝院が念仏堂を建立。 英勝院は、この年までは江戸代官町、以後は江戸駒込千駄木の太田資宗邸に居住する。資宗は、家康の命により英勝院の養子となっており、順調に出世して正保元年(1644)に遠江國浜松3万5千石藩主となる。 ◎寛永13年(1636)、松平頼房に徳川賜姓。 ◎同年11月、徳川頼房32歳の女で英勝院が自身の養子として育てた7歳の小良姫を出家させ、清因尼として開山とし英勝寺を開く。本尊は家光が寄進した運慶作の阿弥陀三尊立像。 ◎寛永14年(1637)12月、家光から三浦郡池子村に300石の寺領と、英勝寺内に屋敷を賜わり、清因尼が英勝寺に移る。英勝院は太田資宗邸に住み続けたようで、英勝院が英勝寺に居住したことはなかったと思われる。 ◎寛永18年(1641)、秋頃より英勝院が病気がちになり、将軍家は奥医師玄冶、名医久志本右馬助らを派遣。 ◎寛永19年8月23日(1642/9/17)、英勝院入寂。享年65歳。 ◎同日夕刻から仮葬儀。法号「英勝院長誉清春」 ◎翌24日、英勝院を英勝寺へ移送し、芝増上寺住職業譽上人、頼房の使者水戸藩附家老中山信政、太田資宗が立ち会って廟所へ埋葬。家光は17日間も喪に服し、鷹狩りもとりやめた。 ◎同月27日(1642/9/21)、将軍家の上使、井上清兵衞正次が英勝寺へ香典として白銀100枚。 ◎同月28日(1642/9/22)、将軍家の上使、中根壱岐守正盛が太田資宗邸へ将軍の上意を伝えて慰労。 ◎同年9月20日(1642/10/13)、幕府により規式に則った表向きの葬儀が鎌倉由比ヶ浜で執行され、英勝寺に於いては100余の僧による千部経転読供養が営まれる。葬儀には水戸初代藩主徳川頼房・光圀父子、太田資宗・資次父子らが参列、尾張・紀伊徳川家、譜代大名らが焼香。 この日、幕府は英勝院が生前に望んでいた勅額を執奏した。これは翌年の英勝院一周忌までに実現し、山門の扁額となる(『山門復興事業』参照)。 後日、英勝院縁の松平忠昌、伊達忠宗・光宗父子、尾張徳川家、紀伊徳川家、譜代大名も英勝寺にて焼香す。 ◎同年、幕府は英勝寺に120石を加増し三浦郡池子村412石711合の一村全てが寺領となる。 加えて英勝寺西側の壽福寺裏山も寺領に繰り入れられたため、源氏山を含み建長寺と境を接する広大な山林が寺地となって、建長寺を凌ぐ寺領となる。 ◎寛永20年(1643)、頼房は8月23日(10/5)の英勝院一周忌法要のため念仏堂を仏殿として改築(新築とも)するとともに英勝院の位牌を安置する祠堂と唐門、鐘楼(含梵鐘)を、頼房の長男で高松12万石の初代藩主となった松平頼重は山門を、その弟、長じて水戸2代藩主となる光圀は墓塔を、それぞれ建立して伽藍の整備が完了。山門から仏殿に向かう参道左側に東から西へ、祠堂、その真後ろに墓塔、さらにその後ろのやぐらに来迎の三尊石仏という順に配置されている。 その後の英勝寺 水戸家の姫として生まれ幼くして出家させられた小良姫、すなわち清因尼は享保4年(1719)に90歳で寂します。法号は、玉峯院殿雄譽即向清因です。 英勝寺に対する水戸藩や幕府の庇護は長期間継続されました。水戸家や、その縁の姫が代々の住持となったので「水戸様の尼寺」と呼ばれ、我が家の親戚を含む多数の水戸藩士が交代で出張して常駐しました。 嘉永4年(1851)の『英勝寺境内図』によれば、惣門、鐘楼、山門、仏殿、祠堂、太子堂、地蔵堂等の伽藍、その奥には仏殿の10倍はあろうかという広大な姫御殿、そして伽藍を囲むように南、東、北に隣接して役人や寺侍らの仕事場と住居、すなわち御用達、御代官、番所、御物見、浄宋庵、御蔵、役所、御留守居、御長屋、物置等の施設が立ち並び、あたかも大名屋敷の様相を呈したため「水戸家御殿」とも称されたそうです。寺地の境界線は、北側は阿仏尼供養塔のさらに先、東側は現在の横須賀線を越えてさらに東にあり、そして南側は壽福寺、西側は源氏山を越えてずっと先です。 しかし、嘉永6年(1853)、6代清吟尼の入寂後は10年間あまり住持が不在になってしまいました。元治元年(1864)に水戸9代藩主徳川齋昭の女で安政5年(1858)生まれの正姫が7代清端尼として入りますが、世は既に幕末の動乱期です。清端尼は明治2年(1869)、12歳で還俗して士族の池田徳澄に嫁ぎ、明治6年(1873)に16歳で亡くなってしまいました。気の毒な一生です。 正姫を最後に水戸家からの住持が絶え、代わって徳川家が支援しましたが明治28年(1895)に松平家から入った住持が大正8年(1919)に寂した後は東京青山の善光寺から住職を招請して現在に至ります。 水戸家の保護を失い、維新政府の主導により慶應4年3月13日(1868/4/5)から明治元年10月18日にかけての布告・通達、すなわち神仏判然令による神仏分離政策に端を発した廃仏毀釈で打撃を受けたうえに、明治22年(1889)6月16日の横須賀線の開通に伴って寺地と堂宇の一部を失い、大正12年(1923)9月1日の関東大震災では多くの堂宇が甚大な被害を受けました。半壊の仏殿は旧材で再建され、鐘楼、祠堂、唐門も寛永期に建立された状態に復元されたものの、全壊した山門のみが再建成らず、全部材が篤志家に買い取られて英勝寺から1Kmほど離れた小町3町目に80年近くもの間、移築されていました。 その山門は、英勝寺と、山門復興を願う人達の長期間にわたる努力で平成23年(2011)に復興再建が成りました。『山門復興事業』をご参照ください。 我が家の関係者 1. 太田氏3代目歳勝の弟が分家して再興した常陸平氏東條氏2代目東條常房の弟が天明7年(1787)に川上氏から養子を迎えますが、そのご実家川上氏2代目の有隣氏が水戸藩士として英勝寺へ出張し、寶永(宝永)元年3月1日(1704/4/4)から同5年閏1月17日(1708/3/9)まで「方丈付属の家老」を勤めました(川上氏より情報ご提供)。 英勝寺滞在中の寶永4年12月16日(1708/1/8)に発生した富士山噴火の際には江戸でも4cmの降灰となり、鎌倉は16cm以上でしたから、川上有隣さんは火山灰の処理でさぞ大変だったことでしょう。 2. 次に、東條常房自身もまた生涯に3回、水戸藩士として英勝寺へ出張しました。職掌は、1回目(寶暦9年(1759))が「方丈付属ノ奥方番兼御金請拂」、2回目(明和4年(1767))が「方丈付属ノ用達」、3回目(安永元年(1772))が「方丈付属ノ奥方番」です。 3. 東條常房の最後の出張から27年後、寛政11年(1799)に私の高祖母きむの祖父三宅八三郎富盛が、常房と同じ英勝寺方丈付属の奥方番として出張しています。この富盛が、三宅八三郎家として水戸藩に出仕した人です。 讃岐一国を領した生駒氏に仕える三宅氏の八三郎富盛が分家して水戸藩に出仕し、英勝寺へ出張しました。やがて富盛の孫娘きむが私の高祖父太田藏吉と結ばれるのは、連枝である高松藩と水戸藩の縁によります。 4. 『太田氏系圖(PDF)』に2代目の太田一有が細工人として水戸初代藩主徳川頼房(威公)に出仕したのが「寛永季中」とあり、これは英勝寺の伽藍が頼房の支援で建立・整備される時期と一致します。 太田一有は、水戸2代藩主徳川光圀(義公)から近臣23名の一人として重用されていますので、英勝寺の彫刻のどれかを手掛けた可能性があります。根拠は、「『後楽記事(Note 2)』によれば、小石川後楽園の唐門扁額の題字「後楽園」は徳川光圀が招いた明の遺臣朱舜水の筆にして太田一有が彫刻せるものとされる。」からです。ただ、光圀には重用されましたが、その父の頼房に重用された証拠がありませんので、英勝寺に足跡を遺したとするのは無理があるかもしれません。 Note 1: 太田道灌持資((諱は資長)永享4年(1432)-文明18年7月26日(1486/8/25))は摂津源氏(広い意味では清和源氏)で、治承4年(1180)源頼朝に先んじて以仁王と共に平家に挙兵した源三位頼政(げんさ(ざ)んみよりまさ)の子孫です。 我が太田氏は常陸平氏ですから太田道灌との直接的な関係はありませんが、江戸時代の職場の上司には道灌の後裔がおられました。英勝院と水戸藩との深い関係から、英勝院の兄太田重政(重正)男の正重以降が代々水戸藩の家老を務めたそうです。 Note 2: 「後楽記事」 = 元文元年(1736)源信興著 参考文献: 『英勝寺山門復興落慶記念誌』 |
山門復興事業 | 大正12年(1923)9月: 関東大震災で山門全壊 平成13年(2001)2月: 山門の部材が移築先から英勝寺へ戻る。復興計画始動。 平成19年(2007)7月: 山門復興工事開始 平成23年(2011)3月: 竣工 |
山門蟇股彫刻 | 『山門蟇股の彫刻』 東西南北の各面左右、合計八つの蟇股には精巧な彫刻が施されています。 |
仏殿蟇股彫刻 | 『仏殿蟇股の彫刻』 十二支が一つずつ彫刻された蟇股(かえるまた)が、仏殿周囲四辺の裳階(もこし)に三つずつ配置されており、それぞれが仏殿中心からの方角を示します。 |
『惣門(総門)』 惣門は普段は使われません。門前の広場は必要なときのみ駐車場になるようで、囲いで閉ざされています。広場の左端に案内標識、右端に太田道灌邸旧蹟を示す石碑が建てられています。塀に沿って横須賀線との間の道を北鎌倉・大船方向へ進むと、門扉に徳川家の三葉葵紋と、その中心に太田家(道灌~英勝院)の桔梗紋を配した通用門があります。 |
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『太田道灌邸旧蹟碑』 英勝寺門前に設置されています。 |
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『袴腰付鐘楼』 寛永20年(1643)8月建立 国指定重要文化財 水戸初代藩主徳川頼房が、開基英勝院の一周忌のために建立しました。袴腰付の楼閣形式入母屋造で、袴をはいているように見えます。梵鐘には、林羅山(林道春)の銘文が刻まれています。鐘楼の三葉葵紋はこちら。 |
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『山門』 寛永20年(1643)8月建立 国指定重要文化財 水戸初代藩主徳川頼房の長男で高松藩主の松平頼重が、開基英勝院の一周忌のために建立しました。280年後の関東大震災で全壊し、小町3町目に80年近くの間、移築されていましたが、平成23年(2011)3月に復興再建が成りました。『山門復興事業』をご参照ください。 |
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『山門扁額』 後水尾上皇宸翰 国指定重要文化財の山門に含む 山門については『山門復興事業』をご参照ください。 |
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『仏殿』 寛永13年(1636)建立/寛永20年(1643)改築 国指定重要文化財 開基英勝院の一周忌のため水戸初代藩主徳川頼房が改築しました。堂内には、江戸幕府3代将軍家光から寄進された運慶作の阿弥陀三尊立像、堂内壁面には鳳凰、天井には太田家の桔梗紋と徳川家の三葉葵紋、そして迦陵頻伽(かりょうびんが)などが極彩色で描かれています。 |
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『仏殿扁額』 国指定重要文化財の仏殿に含む 正面入口上方に掲げられている扁額。号は「寶珠殿(宝珠殿)」です。扁額の縁の部分には、塗られていた朱がいまも残っています。山門の扁額「英勝寺」はこちら。 |
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『仏殿北面』 国指定重要文化財 蟇股(かえるまた)の十二支彫刻は、この北面中央が子(ね)、その左に丑(うし)、子の右に十二支最後の(い)という具合に三つが並んでいます。 |
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『祠堂の唐門』 寛永20年(1643)建立 国指定重要文化財 祠堂の門である唐門は、桃山様式の一間一戸の平唐門です。出入り口上部には、花と流水門の透かし彫りが施されています。水戸初代藩主徳川頼房が、開基英勝院の一周忌のために建立しました。唐門の向こうに見える建物は、祠堂を保護している鞘堂で、この一帯が英勝院の墓所です。 |
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『唐門の細工』 唐門(祠堂門)が国指定重要文化財 花と流水門の透かし彫りです。 |
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『金具の蝉』 仏殿正面の扉下部の金具に蝉がとまっています。 これも細工人の仕事ですね? |
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『英勝院祠堂』 寛永20年(1643)建立 国指定重要文化財 開基英勝院の位牌が納められている祠堂は、華麗な極彩色の模様など桃山様式の作風を伝えています。水戸初代藩主徳川頼房が、開基英勝院の一周忌のために建立しました。 |
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『英勝院墓塔』 寛永20年(1643)建立 国指定重要文化財の祠堂に含む 水戸初代藩主徳川頼房の3男で、後に水戸2代藩主となる徳川光圀が建立しました。祠堂と来迎の三尊石仏の中間に配置されています。 |
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『来迎三尊石仏』 英勝院墓塔背後の鎌倉石の山に掘られたやぐらに祀られています。 |
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『金毘羅宮』 英勝院墓塔背後の来迎の三尊石仏が祀られたやぐらと同じ鎌倉石の山肌の、すぐ右側に掘られたやぐらに納められています。 |
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『太子堂跡』 三霊社権現の右手階段の上、英勝院墓塔背後の来迎の三尊石仏が祀られたやぐらと同じ山の中腹にあります。太子堂は既に廃されていて、その建物は大船の常楽寺に移築されて現存します。現在は広場になっており、その右端に行くと、すぐ下に英勝院の祠堂と墓塔が見えます。 |
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『三霊社権現』 鎌倉石の山をくり抜いた洞内には仏像が祀られており、中に入って参拝することができます。すぐに出られますから心配ありませんが、照明がなく暗いので足元と頭に注意してください。 |
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『三霊社権現内の仏像』 洞内に祀られた仏像です。洞内は暗いので、見逃さないでください。入ったら一旦停止して、目が暗さに慣れてから進みましょう。 |
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『姫御殿跡』 いまは竹林となっている、この場所に嘗ては姫御殿がありました。嘉永4年(1851)の英勝寺境内図を見ると、建坪が仏殿の8倍はありそうな、とても大きな建物だったようです。 |
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『書院』 さまざまなイベントが、この書院で開催されています。 |
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『通用門と通用口』 私たち一般の来訪者は、右側の小さな通用口から出入りします。顔をぶつけぬようにご注意下さい。拝観料は¥300です。門扉には、徳川家康と太田家(道灌~英勝院)の家紋を組み合わせて配されています。 |
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『阿佛尼(阿仏尼)供養塔』 『十六夜(いざよい)日記』の作者で歌人である阿佛尼は、実子冷泉為相とその兄の所領争いで為相に播磨国細川庄を相続させる訴訟のため建治3年(1277)に京から鎌倉へ来ましたが、訴訟が長引き志半ばで弘安6年(1283)に寂しました。英勝寺から海蔵寺方向へ少し歩くと道路左側にこのやぐらがあります。江戸時代前期には卵塔だったそうですから、誰かが六層塔に建て替えたのでしょう。 |
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--- この下は、1月から12月の順です。 --- | |
『祠堂前のワビスケ(侘助)』 平成21年(2009)2月11日撮影 樹齢100年以上、樹高6mの大きな木に小さく清楚なピンクの花をつけます。昭和38年(1963)7月17日に鎌倉市の天然記念物に指定されました。唐門をくぐると正面、右手の祠堂からも正面に見えます。祠堂の英勝院は、100年ほど前からワビスケを鑑賞できるようになりました。 |
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『しだれ桜(枝垂桜)』 平成21年(2009)4月5日撮影 書院前です。 |
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『しだれ桜(枝垂桜)のアップ』 平成21年(2009)4月5日撮影 一重の花は、尼寺に相応しい清楚な印象です。 |
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『花大根(諸葛菜)』 平成21年(2009)4月5日撮影 春本番、「花のお寺」英勝寺では大根の花も彩りを添えています。群生してたいへん綺麗です。野菜の大根ではありません。 |
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『曼珠沙華(マンジュシャゲ)2011』 平成23年(2011)10月1日撮影 2010年の曼珠沙華はこちら。 埼玉県日高市巾着田(きんちゃくだ)の曼珠沙華はこちら。 |
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