太田氏2代目・3代目と常陸平氏東條氏再興の部分を『太田氏系図』より抜粋 |
天正18年5月20日(1590/6/21)、豊臣秀吉派遣軍との合戦に負けて江戸に潜伏した東條改め太田氏初代に慶長11年(1606)(推定)、2代目一有(かずあり)が生まれました。このページは、一有と、そのその長男3代目歳勝、その弟で姓を東條に復した東條常言(つねとき)と、その長男常信で、「太田氏系図(PDF)」の抜粋です。 太田氏2代目一有は細工人として水戸藩に出仕しました。細工人の匠の技は長男歳勝でなく、弟の常言に遺伝したようで、東條常言が細工人の仕事、太田歳勝は彰考館の仕事をしました。 東條常言は常陸國(那珂湊)天満宮の御神体となる菅公木像を制作すると、武家の道に戻ります。そこで、隠居した一有が細工人の仕事を継続します。 |
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『太田氏2代目』 細工人太田九藏家として水戸初代藩主徳川頼房に出仕、2代藩主徳川光圀に重用され彫刻で貢献。光圀の假面や塑像を制作。小石川後楽園に昭和20年まで存在した唐門扁額の題字「後楽園」は、光圀が招いた「明の遺臣朱舜水の筆にして太田九藏(一有)が彫刻せるもの」とされる。光圀は西山荘に隠棲する際に近臣23名の一人として帯同、一有親子は西山荘近傍の白坂に住す。元禄6年には光圀の命で桂村高久(城里町高久)の鹿嶋神社に祀られる悪路王頭形を修理。 太田助衞門一有 寛永季中(1624~1644)威公(徳川頼房)に奉仕す。切符を賜わって細工人となり延寶年中(1673~1681)致仕し、 元禄10 丁丑年2月29日(1697/3/21)死す。91歳。2男あり。 長男は九藏歳勝。次を東條兵助常言と云う。 『太田氏3代目』 一有の長男で細工人を継ぐも歩行士に転じて光圀の『大日本史』編纂事業に従事。 太田九藏歳勝 父隠居して其の切符を賜わって細工人となり、 天和3癸亥年11月25日(1684/1/11)歩行士の列となる。 享保9 甲辰年3月3日(1724/3/27)死す。77歳。4男あり。 長男は半十郎歳正。次は九藏歳忠。次は九藏歳知。次を丈衞門歳次初名千太郎と云い、享保12 丁未年2月7日(1727/3/29)死す。 『太田氏3代目歳勝の弟』 一有の次男。曾祖父の旧姓に復して常陸平氏東條氏を再興。光圀の命で菅原道真木像を制作。光圀は元禄8年(1695)春、それを常陸國(那珂湊)天満宮(ひたちなか市)に御神体として奉納。その後、常言、そして東條氏は専ら武家の道を歩む。 東條兵介常言 夲氏に復して東條を稱す。 延寶7 己未年9月16日(1679/10/20)切符を賜て細工人となり歩行士の列。 元禄16 癸未年9月(1703年10~11月)小十人組の列となり、 享保8 癸卯年9月26日(1723年10月24日)死す。62歳。 尾田十兵衞某(松平大和守直矩家士)の女(むすめ)を娶て一男を生む。介衞門常信と云う。 『東條常言の長男』 この常信の長男介衞門常房が鎌倉英勝寺へ3回出張。 東條介衞門常信 初名助三郎 寶永3 丙戌年5月7日(1706/6/17)切符を賜わって歩行士となり、 享保4 己亥年8月14日(1719/9/27)同組頭。 享保9 甲辰年9月16日(1724/11/1)小十人組。 享保11 丙午年6月7日(1726/7/6)同組頭。 享保13 戊申年6月23日(1728/7/29)新料理間番。 享保14 己酉年12月5日(1730/1/23)江戸矢倉奉行。 元文2 丁巳年6月4日(1737/7/1)奥方番となり、 延享元 甲子年7月25日(1744/9/1)随性院夫人附属の添番。 延享3 丙寅年6月(1746/7~8)夫人逝去に依て8月18日(1746/10/2)小普請組となる。 延享4 丁卯年1月29日(1747/3/10)死す。62歳。岩瀬氏女3男を生む。 長男は介衞門常房。次男は原田幸次郎常泰と云う。 享保8 癸卯年2月28日(1723/4/3)兵四郎成重の養子となる。 享保10 乙巳年10月25日(1725/11/29)不熟に依て家に還る。 享保16 辛亥年2月10日(1731/3/17)病身の故を以て暇を賜う。次(三男)は兵助常長と云う。 |
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