小石川後楽園 | |||||||||
★唐門扁額の題字は私の先祖の彫刻で、昭和20年(1945)まで存在していました。 沿革: 山水を好む水戸初代藩主徳川頼房(威公)は中屋敷とすべく徳太寺左兵衞(とくだいじ さひょうえ)に庭園の適地を選定させ、寛永6年閏2月朔(1629/3/25)、頼房の甥で親密な3代将軍徳川家光(Note 1)より小石川に76,689坪を賜わる。この地は樹齢数百年の喬木が鬱蒼と茂り、沼地、丘陵、田畑があり好適だったという。頼房は左兵衛に作庭を命じ、自然地形と樹木を利用した初期の庭園と屋敷が同年9月28日に竣工。頼房は代官町の屋敷から公居をここへ移す。家光は寛永10年(1633)3月、寛永13年(1636)9月、寛永17年(1640)10月、正保元年(1644)3月に来訪し作庭に助言。頼房は寛永17年(1640)3月に儒学者林羅山を庭園に召し築山一帯を小廬山(しょうろざん)と命名せしめる(Note 2)。 寛文元年(1661)、徳川光圀(義公)が2代藩主となると、「父頼房と将軍家光の努力で成った庭園ゆえ一木一石と雖もみだりに改修せず」としつつも適切な潤色を行なって庭園を完成させ上屋敷とする。 寛文5年(1665)6月、光圀は、滅亡した明から亡命して長崎にいた儒学者朱舜水(しゅ しゅんすい)(1600/11/17-1682/5/24(天和2年4月17日))の下へ史局(後の彰考館)の小宅処斎を派遣して招聘。同年7月、舜水は江戸へ移住し水戸藩駒込別邸に住む。光圀は舜水の逝去まで師事。庭園の潤色に舜水の意見を採用。『後樂園』は舜水の命名。宋の范文正の『岳陽楼記』に記された「士當先天下憂而憂後天下之樂而樂(士はまさに天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)」による。 上屋敷書院側庭園を内庭(うちにわ)、唐門の向こうを後園と呼び、光圀は後園、すなわち後楽園を江戸市民に解放した(元禄13年(1700)の光圀没後、元禄末期に開放中止)。 「後樂記事(Note 3)」によれば、唐門扁額の題字『後樂園』は朱舜水の筆にして太田九藏(一有)が彫刻せるものとされる。舜水が『後樂園』と命名したのは寛文8年(1668)4月8日より後、寛文9年(1669)3月19日以前とされるので、太田九藏(一有)が唐門扁額の題字を彫刻したのは、この時期となる。 半円形を成す石橋『円月橋』は舜水の設計と指導により梓人(Note 4)駒橋嘉兵衞が築造。8代将軍徳川吉宗が江戸城吹上庭に模造を計画して石工に円月橋を見学させるも構造を理解し得ず、ついに実現は成らなかったという。 得仁堂に祀られる伯夷・叔斉の像は前田助(介)十郎の作とされる。太田九藏(一有)と前田介十郎は、共に光圀が西山荘へ隠棲するにあたり帯同する細工人であり、光圀の假面彫刻も二人で行なっていることから互いにライバルであり、且つ生涯の友であったろう。 元禄13年(1700)5代将軍徳川綱吉が来訪のおり、添地として11,094坪を賜わり邸地は合計87,783坪となる(現在の小石川後楽園の敷地は約2万1千坪)。 その後の庭園は、代々の藩主が不適切な改修を行なって荒廃した時期もあったが、江戸後期には復旧した。ところが10代慶篤(粛公)の時代には政治的動揺と天変地異が相次いだため再び廃頽した。 荒廃した状態で迎えた明治期には小石川藩邸が陸軍の施設となったために後楽園は地積を狭め、東京砲兵工廠の工場から排出される煤煙で樹木が枯死する被害を受けたが、逆に陸軍の管理下に置かれたため庭園の保存は良く行なわれた。 大正12年9月1日の関東大震災では午前11時58分の第1回目本震の揺れと、その後の複数回の余震が破壊を増長せしめた。石灯籠はすべて倒れ、多くの建造物が倒壊した。唐門は倒壊に至らなかったものの少し傾斜し、各所に緩みを生じたため支柱で倒壊を防いだ。南約50 mにあった材料庫と倉庫が焼失したが唐門は類焼を免れた。 このように、約276年間にわたり創建時の姿を維持した唐門も、大東亜戦争(太平洋戦争)の空襲(Note 5)で、ついに焼失。 【情報引用: (旧)文部省「名勝調査報告書(※)」 第三輯 調査者: (旧)文部省嘱託 吉永義信 昭和12年(1937)3月30日発行】 ※上記は、同報告書の情報に既知の情報と私(太田修)自身の考えを追加しています。 ※同報告書に掲載されている唐門の写真はこちら Note 1: 「水戸紀年」では台徳公(2代将軍徳川秀忠)となっています。しかし、この時点で家光が既に3代将軍となっておりますので、頼房が懇意にしている家光としました。秀忠は元和9年(1623)に嫡男家光に将軍職を譲ったものの、父家康に倣い大御所として実権を把握し続け、寛永9年1月24日(1632/3/14)に没するまで3代将軍家光との二元政治を行なっていました。したがって、家光が父秀忠の承認を得て小石川の土地を頼房に与えたものと推測します。 Note 2: 園内説明板より「中国の名勝地『廬山(Note 2.1)』にちなみ、京都の清水寺一帯が小廬山(しょうろざん)と呼ばれている。大堰川上流の景色が京都の清水に似ていることから藩祖頼房の求めにより寛永17年(1640)に林羅山が『小廬山』と名づけた。現在は、オカメザサに覆われた丘のことを小廬山と呼んでいる。」 Note 2.1: 広辞苑によれば 廬山(ろざん) = (Lu Shan)中国、江西省の北部にある名山。九江の南、鄱陽(はよう)湖と長江とに臨む。標高1474メートル。景勝の地、また、仏教の霊跡。李渤の白鹿洞書院、陶潜の靖節書院、香炉峰の古跡がある。匡山。南障山。匡廬。 Note 3: 「後樂記事」 = 元文元年(1736) 源信興著 Note 4: 広辞苑によれば 梓人(しじん) = 大工の棟梁。工匠。 Note 5: 東京は100回を越える空襲を受けました。唐門が焼けたのは、小石川一帯が甚大な被害を被った昭和20年(1945)5月25日夜半の空襲のときと推測します。 |
唐門復元 | 復元開始~復元完了 |
『唐門の古写真(の写真)』 先祖が彫刻した扁額を掲げる唐門は大東亜戦争(太平洋戦争)の空襲で昭和20年(1945)に焼失。現在の駒札の写真部分を撮影しました。『(旧)文部省「名勝調査報告書」 第三輯 調査者: (旧)文部省嘱託 吉永義信 昭和12年3月30日発行』に掲載されている唐門の写真はこちら。 |
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『唐門の写真と同じアングルの写真』 上の写真と、ほぼ同じアングルから撮った写真です。 |
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『現在の唐門跡駒札(説明板)』 現在の駒札(説明板)です。 駒札左方の写真部分を撮ったのが二つ上の写真です。 |
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『現在の唐門跡駒札(説明板)英語部分のアップ』 現在の説明板の英語部分のアップです。 |
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『唐門跡 正面 内庭(上屋敷書院)側 その1』 この礎石の上に唐門がありました。 |
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『唐門跡 正面 内庭(上屋敷書院)側 その2』 この礎石の上に唐門がありました。 |
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『唐門跡 背後 後楽園側 その1』 この礎石の上に唐門がありました。 書院方向、すなわち内庭方向を見ています。 |
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『内庭から唐門(跡)を臨む』 池の向こうの正面に、昭和20年(1945)までは唐門がありました。 |
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『唐門跡 背後 後楽園側 その2』 この礎石の上に唐門がありました。 |
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『唐門跡 背後 後楽園側 その3』 この礎石の上に唐門がありました。 |
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『小石川上屋敷書院庭園の説明』 小石川上屋敷書院側を内庭(うちにわ)、唐門を入った先の後楽園側を後園(後楽園)と呼ぶそうです。 |
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『遊園地と東京ドーム』 地下鉄丸ノ内線の後楽園駅 1番出口から、歩道橋を渡って先ず東京ドーム方向へ向かいます。 遊園地は、東京ドームシティ アトラクションズ(旧 後楽園ゆうえんち)です。 |
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『東京ドームと小石川後楽園』 東京ドームには入らず、写真中央の木がこんもり繁っている隣の小石川後楽園へ。 |
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『小石川後楽園北側の長い築地塀』 長ーい築地塀の向こう端を左へ左へ回り込んで、入口はずっと先です。 |
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『小石川後楽園築地塀石積の説明』 築地塀の一部に、江戸城外堀跡から出土した石垣の石の一部を利用したそうです。 当該石の再利用位置表示プレートはこちら。説明にある備中成羽藩主 山崎家の『山』マークの石はこちら。どちらの藩か分かりませんが『□』マークの石はこちら。 |
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『小石川後楽園ご案内』 地下鉄南北線の後楽園駅1番出口から約10分です。次回以降は秋葉原駅でJR総武線に乗り換えて飯田橋駅から来ようと思います。秋葉原駅での乗り換えは、私の趣味であるアマチュア無線の面でもメリットがあります。2017年に唐門の復元計画が発進し、令和2年(2020)12月に復元後の唐門が公開されました。東京都の報道発表はこちら。 |
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『小石川後楽園入口』 | |
『小石川後楽園 園内』 東京ドームが迫っていて目障りですが、公園は手入れが行き届いて、とてもいい雰囲気です。 |
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『小石川後楽園 小廬山』 中国の名勝地『廬山』にちなみ京都の清水寺一帯が『小廬山(しょうろざん)』と呼ばれ、似ているこの景色に林羅山が同じく『小廬山』と名づけたのだそうです。我が家の小廬山はこちら。 |
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『小石川後楽園 曼珠沙華』 見ごろです。 水戸徳川家ゆかりの鎌倉英勝寺の曼珠沙華はこちら。有名な埼玉県巾着田の曼珠沙華はこちら。 |
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『小石川後楽園パンフレット』 読みづらいときはPDFファイル(約12 MB)をご覧ください。 |
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『水戸産のお土産』 水戸を応援するために5千円超も買ってきました。 2017/10/31のコメント: 訪問2回目の本日も5千円超の買い物でした。 |
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