名字の地 東條太田

『名字の地 太田』 常陸國信太郡東條太田(当時) = 茨城県稲敷市下太田(現在) Googleマップ 稲敷市下太田 永暦元年(1160)~天正18年(1590) 430年間在住  2002年4月撮影
カメラ機種名: Fuji Film FinePix4500, レンズ: カメラ内蔵 35mm換算36mm固定            ★上のGoogle マップをクリックすると、ストリートビューで最近のバス停をご覧いただけます。

太田バス停は、龍ヶ崎と潮来を結ぶ県道5号線にあります。
我が家の『太田』の名字(苗字)は、この地名から興りました。それは、天正18年(1590)5月20日(推測)のことです。
豊臣秀吉の小田原攻めに伴う常陸國の合戦に於いて、後北條方土岐氏の麾下にあった東條彈正は秀吉方佐竹義宣の弟蘆名盛重(直接的にはその配下の神野覚助隊)と戦い「一家悉く滅亡」します。彈正の父東條兵庫幹要は既に没していたか、または一緒に戦死したと思われます。
このとき彈正の子の助衞門某が生き残りました。東條と名乗ったのでは生き残ったのがばれてしまいます。そこで、これまで居住していた東條庄太田の地名から太田に改姓して江戸へ逃亡・潜伏します(『歴史年表(PDF)』の天正18年参照)。東條英機さんのご先祖は東北地方まで逃げて改姓はされなかったようです。
このとき太田氏初代の助衞門某は9歳くらいですから、一人ではとても江戸まで行けません。母、叔父の太田源五左衞門、または誰か関係者の生き残りが連れて行って下さったと思います。
太田助衞門某は江戸で亡くなり、その長男助衞門一有が101年後に常陸國へ戻ります。戻った場所はこちらです。
ところで、我が家の系図(PDF)によりますと、上記東條彈正の弟は太田源五左衛門と申します。この系統については全く分かっておりませんが、もしかすると後裔が生き延びているかもしれないと、一縷の望みを抱いております。上の写真を撮影した日に訪問した新利根町役場の女性が「私も太田ですよー」と仰っていたのが気になっています。

外部リンク
各地区公式サイト: 茨城県つくば市稲敷市  東京都文京区

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