大日本史編纂記録『往復書案』一覧 (抜粋) |
大日本史編纂記録『往復書案』のうち、太田九藏(Note)が含まれる書状の一覧です。( )内の年齢は私が追記しました。 |
書名 |
年次 |
差出人 |
宛名人 |
1) 御用書状留 | 元禄8年8月15日(1695/9/22) ~同年9月8日(1695/10/15) |
安積覺兵衞(41歳)・中村新八(49歳) | 佐々介三郎(56歳)・石井弥五兵衞・太田九藏(48歳)・米川弥八郎 |
2) 京都御用書案 | 元禄12年2月29日(1699/3/10) ~同年4月13日(1699/5/12) |
安積覺兵衞(45歳)・栗山源介 | 井上玄桐・朝比奈半冶・安積覺兵衞・太田九藏(52歳)・鈴木宗与 |
3) 御用書案 | 元禄12年4月15日(1699/5/14) ~同年5月15日(1699/6/12) |
安積覺兵衞(45歳)・栗山源介 | 井上玄桐・太田九藏(52歳)・安積覺兵衞 |
4) 京都御用書案 | 元禄12年閏9月11日(1699/11/2) ~同年10月8日(1699/11/28) |
安積覺兵衞(45歳)・栗山源介・中村新八(53歳) | 栗山源介・太田九藏(52歳)・井上玄桐・中村新八・伴五百衞門 |
5) 京都御用書案 | 元禄14年1月29日(1701/3/8) ~同年2月23日(1701/4/1) |
安積覺兵衞(47歳)・中村新八(55歳)・栗山源介 | 井上玄桐・太田九藏(54歳)・馬場佐五右衞門・酒泉彦太夫・狩野興雲・道昶・甚兵衞・近藤弥兵衞・三宅紋衞門・堀江藤衞門・矢田倍長門守・津田平蔵・田中三左衞門 |
6) 江戸西山御用書案 | 元禄14年2月23日(1701/4/1) ~同年4月12日(1701/5/19) |
安積覺兵衞(47歳)・中村新八(55歳)・栗山源介 | 酒泉彦太夫・奥山立庵・太田九藏(54歳)・矢野長九郎・岡崎只衞門・秋山孫太郎・鵜殿八兵衞・栗山源介・嶋村介九郎 |
7) 江戸西山御用書案 | 元禄14年4月12日(1701/5/19) ~同年5月21日(1701/6/26) |
安積覺兵衞(47歳)・中村新八(55歳)・酒泉彦太夫 | 浅井太郎兵衞・近藤弥兵衞・太田九藏(54歳)・栗山源介・津田平蔵 |
8) 江戸西山御用書案 | 元禄14年10月24日(1701/11/23) ~同年11月18日(1701/12/17) |
安積覺兵衞(47歳)・酒泉彦太夫・栗山源介 | 中村新八(55歳)・太田九藏(54歳)・加治伝兵衞 |
出展: 『茨城県史料 近世思想編 大日本史編纂記録』 Page 459~481所載 発行者: 茨城県 編集・販売者: 茨城県立歴史館 後に水戸2代藩主となる德川光圀(この頃は光國)30歳が江戸の駒込別邸に史局を設け明暦3年(1657)に開始した史書(後に『大日本史』)の編纂事業に於いて、江戸と水戸に分かれた史館員(彰考館員)相互の連絡や、史料収集・調査のため各地へ派遣された史館員との情報交換のために交わされた書簡が『往復書案』です。 上記8通は京都大学文学部所蔵、それ以外に茨城県立歴史館に所蔵されているものもあります。 Note: 上記リストの太田九蔵は、太田氏3代目の歳勝です。 太田九藏歳勝 慶安元年(1648)太田氏2代目助衞門一有の長男として江戸で誕生。 父一有は既に寛永年中、細工人太田九藏家として水戸初代藩主德川頼房(威公)に出仕しており、取り分け2代藩主徳川光圀(義公)に彫刻の技で重用されるなか、天和3年(1683)に歩行士の列となった長男の歳勝は大日本史の編纂に従事。 元祿4年(1691)光圀が西山荘に隠居すると、一有が近臣23名の一人として西山荘近傍の白坂に屋敷を与えられ、歳勝とその妻子も白坂に住した(Note)。 元祿10年(1697)、一有がこの地で没し、元祿13年(1700)に光圀が没すると、歳勝は水戸城下の天王町へ転居し享保9年(1724) 77歳で没。 一方、歳勝の弟常言は祖父の旧姓である東條に復して分家し、兄と同じく水戸藩に出仕、ここに常陸平氏東條氏の再興が成る。延寶7年(1679)に細工人となり、元禄8年(1695)に光圀の命で常陸國天満宮の御神体を制作した後は武家の道を歩む。常言の子常信は江戸矢倉奉行を務めたり、孫の常房が鎌倉英勝寺へ出張したりして常陸平氏東條氏の興隆を図るが、寛政5年(1793)に嗣絶。(『太田氏系図(PDF)』) 2015/10/31: N大学教授のH (K) 様よりemailを賜わりました。主旨は「お問い合わせ」でしたが、逆に私からの質問にご丁寧、且つご親切にご対応下さいました。その結果、大日本史編纂記録によって太田九藏歳勝が義公の墓石制作に活躍したことをご教示いただくことができました。 お問い合わせは、「大日本史編纂史料から太田九藏歳勝が義公(徳川光圀)の墓石制作に活躍しているのだから、その父一有が義公の父威公の墓石を制作したのではないか?」とのことです。恥ずかし乍ら私は情報を持っておりませんので、どなたか瑞龍山徳川家墓地の墓石制作者に関する情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご連絡賜われませんでしょうか。emailはこちら。 後裔本人より進んだ調査をされていらっしゃる研究者がいらっしゃることに感激し感嘆する心状です。 ところで、『水戸黄門漫遊記』に於いて、徳川光圀は黄門様、佐々介三郎宗淳はスケさん、澹泊斎安積覺兵衞はカクさんのモデルであるとされています。 感慨深いのは、太田歳勝が、スケさんとも、カクさんとも、そして黄門様ともリアルタイムで仕事をしていたことです。もちろん、諸国漫遊ではなく大日本史の編纂事業です。 スケさんは59歳のとき元祿11年(1698)に西山荘近傍の地で亡くなりますが、その3年前には行動を共にしていました。 スケさんは歳勝より8歳年長なので、歳勝はスケさんの弟分として従っていたのでしょう。 一方のカクさんは7歳年少なので、カクさんが歳勝の弟分でしょうか。しかし、カクさんはこの後も長生きして元文2年(1737)に83歳で没するまで大日本史の編纂に多大な功績をあげます。 また、中村新八(篁渓)さんとは1歳違いなので、年齢の面では同僚という感じですね。もちろん、大日本史編纂事業への貢献度とは別の話です。 Note: 歳勝は歩行士の列となり、細工人の職は弟の常言が継いだことから、白坂に住んだのは常言の可能性もあります。 |
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