生瀬一揆(なませいっき)(生瀬乱(なませのらん)) 德川家康11男で弱冠7歳の徳川頼房(当時は鶴千代)が水戸初代藩主となった、その年、慶長14年(Note)10月10日(1609/11/6)に水戸藩領久慈郡小生瀬村(茨城県久慈郡大子町大字小生瀬)で発生した、水戸藩による一村皆殺しという悲惨な事件です。 組織的なもみ消し工作があったと言われ、この事件は全ての水戸藩主に無視されたそうです。初代藩主徳川頼房は幼少のため駿府の家康の下で庇護・養育されていた頃の事件であり、2代藩主徳川光圀が生まれるずっと前の話ですが、もしかすると藩主にも報告されなかったのでしょうか。 この事件の現場は、有名な袋田の滝の上流、約2 kmです。袋田の滝は、その直後に赤く染まったのではないでしょうか。NHK水戸支局の中継で袋田の滝が映し出される度に事件を想い、悲しい気持ちになるのは私だけではないでしょう。いまの袋田の滝は、優しく美しいです。 事件の経緯(伝承): 慶長14年(1609)(Note)10月8日(1609/11/4)、徴税吏(年貢取り立て役人)に化けた者(旧領主佐竹氏方とも?)が小生瀬村へ年貢を取り立てに来たので年貢を納めたその後に行った本物の役人を偽物と誤認して怒った村民が一人を殺し偽徴税吏として死体を水戸藩政府に送りつけたことから、2日後の10月10日、この事件が発生した。 水戸藩士により老若男女、子供までほとんどの村民三百数十人が殺害され、山に逃げ込み辛うじて他藩領へ逃れることができた2~3人により事件の情報が子孫へ伝承される。 現在も、地名に悲劇の痕跡が残ると言う。追い詰められた村民が殺された一帯が「地獄沢」、その入口付近で村民が命乞いをした「嘆願沢」、役人が、斬った村民の血を拭いた「刃拭き沢」など。 しかしながら、水戸藩政府に死体を送り付けたりすれば、例え偽徴税吏であったとしても藩が反応することは予想できるはずです。距離のある水戸から武装した藩士が進軍して来ていれば、村民の誰かが気付かないはずがありません。それにもかかわらず地理に精通する村民のほぼ全員が殺され、数人しか逃げ出せなかったことは不可解です。 「生瀬一揆」と称されるということは、何かの理由で村民が団結して水戸藩に反抗し、果たせずに諦めたのでしょうか。 この一帯の住民は長期間、代々にわたって佐竹氏の恩顧を蒙った人ばかりであることを考えれば、新参者の水戸藩が佐竹氏を秋田へ追い遣ったと考えるのが普通かもしれません。水戸藩への敵対心を背景とする事件なのでしょうか。 私には解明不可能ですが、何れにしても悲しい事件が発生したことは確かなようです。水戸藩士の後裔として合掌。 Note: 生瀬一揆については、発生の日付「旧暦10月10日」は共通するも、年は慶長7年10月10日(1602/11/23)から元和7年10月10日(1621/11/23)までの諸説があります。辛くも生き残った数人の口碑によるため齟齬が生じているのだと推測します。 |
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