平國香の説明板

『平國香の説明板』 常陸國真壁郡石田 = 茨城県筑西市(旧 真壁郡明野町)東石田 長光寺門前 Googleマップ 茨城県筑西市  2002年4月撮影 
カメラ機種名: Fuji Film FinePix4500, レンズ: カメラ内蔵 35mm換算36mm固定

ここ、長光寺は平國香の館跡です。昌泰元年(898)~承平5年(935) 37年間在住(京より下向当初の上総國武射郡在住期間含む)  長光寺山門はこちら
以下、明野町教育委員会(現 筑西市教育委員会)の平國香説明板より引用。


【翻刻】
  平国香(たいらのくにか)
 国香の父である高望(たかもち)王は寛平元年(889)平性を賜わり、上総介として東国(関東)に下り、上総下総常陸にわたり広大な私有地を開きこれらを諸子に分け与え長男の良望(よしもち)(国香)には常陸国真壁郡石田(東石田)が与えられました。
 国香は父高望王亡きあと、常陸大じょう鎮守府将軍に就き一族の長として、筑波郡、真壁郡、新治郡一帯の統治を征されることになりました。
 国香が住んでいた真壁郡石田(東石田)は、東は開けた田面と筑波川(桜川)をへだてて筑波の霊峰に対し、西は大森林地帯、更に西には鳥羽の淡海が漫々と水をたたえており、この地に荘園を持ち、その中心地に居館を構え、村人たちの生活をより豊かにしようと開発勧農に力を注ぎ、率先して開墾の先頭に立ち指揮をとりました。
 苦労の甲斐あって、田畑は徐々に広がり、このあたり一帯が美しい水田に変わりました。
 承平5年(935) 平将門と源護の間に争いが起こり、護に味方した国香は自ら軍を指揮して出動したが将門の精鋭軍に敵せず、石田の居館に逃げ帰ったが、将門軍は追撃激しく石田の居館をおそった。国香は傷を養っていた所、火をかけられ、舎、宅、ことごとくてん滅されてしまった。承平5年2月4日のことである。
 東石田には国香の墓、居館跡が伝承されている。
                                                                               明野町教育委員会


平成17年(2005)3月28日、「平成の大合併」で下館市、真壁郡関城町、同郡明野町、同郡協和町の合併により筑西市が新設されました。「長光寺 = 平國香の館跡」は筑西市東石田1048です。

國香の父、高望王が平姓を賜わったのが寛平元年(889)(または同2年(890))であり、寛平元年(889)12月(または昌泰元年(898))に平高望
(たいらのたかもち)が上総介に任じられて、長男國香(良望)、その弟らと共に京都から上総國武射郡へ下向してきました。やがて平國香は常陸國新治郡大串(下妻市大串)を本拠とする常陸大掾源護(みなもとのまもる)の女(むすめ)を妻とし、ここ常陸國石田(現東石田)へ本拠を移しました。

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