東條氏の重大問題 その3: 南北朝内乱期に南朝方として挙兵…余力を残して降伏 |
南朝と北朝のどちらが正統かというような高いレベルの話しではなく、全ての武士団は風と空気を読んで誰と与すれば一族が生き残れるのかを常に模索していました。 東條氏は東條五郷を領しましたが、下記引用のように北朝方足利尊氏が高田郷(稲敷市高田)を東條氏から没収して佐佐木定宗へ与えるという事態が発生しました。そこで東條氏は南朝へ靡き、備えに神宮寺城を築きます。 南北朝内乱初期は南朝方が優勢でしたが、次第に劣勢に陥り、結果は北朝方に降伏する羽目に陥ります。 しかし、不思議なのは南朝方として戦っている最中にも、そして降伏後も東條氏が鹿島大使役を務めていることです。鹿島大使役を務めるのは、真壁氏が負担の大きさから辞退したことがあるように財政的負担が大きいそうですが、それよりも族滅するかもしれない状況のときに、私だったらそんな余裕はないでしょう。 下記、『太田氏概説』より引用。 南北朝内乱初期の東條荘は全盛期を迎えた東條氏の統治が確立していたが、建武3年(北朝)/延元元年(南朝)(1336)、北朝方足利尊氏が後醍醐天皇を無視して論功行賞を行ない東條荘高田郷を佐佐木定宗へ宛行。高田郷を没収された東條氏は南朝へ靡き、備えとして神宮寺城を築く。建武4年(北朝)/延元2年(南朝)(1337)、常陸南朝勢は東條太田城に挙兵。暦應元年(北朝)/延元3年(南朝)(1338)9月、南朝の准后北畠親房は勢力立直しのため約500艘の大船団で伊勢から陸奥へ向かうも遠州灘で台風に遭い船団は四散、親房ら数百は東條浦(稲敷市桜川地区)へ漂着。東條氏(能登守か)の案内で神宮寺城へ入る。同年10月5日(1338/11/17)、北朝方の佐竹義篤が大掾高幹、鹿島幹寛・幹重父子、烟田時幹、宮崎幹顕ら(全て常陸平氏)を糾合して霞ヶ浦を渡り来攻。神宮寺城は程なく落城。親房主従は阿波崎城へ移り、救援の小田治久により小田城へ移る。暦應4年(北朝)/興國2年(南朝)9月17日(1341/10/27)、北朝方屋代彦七信経・別府幸實らが南朝方の信太荘佐倉楯(稲敷市佐倉)・河内郡馴馬楯(龍ヶ崎市馴馬町)・東條太田城・龜谷城(稲敷市羽賀(諸説あり))を攻略。同年10月5日、東條氏は北朝方に降伏。降伏の僅か3ヶ月前に鹿島大使役を務め、輪番どおり7年後にも鹿島大使役を務めることから、余力を残しての降伏であったと推測できる。 東條氏の重大問題 その1 その2 その3 その4 |
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