東條氏の重大問題 その4: 織豊後期に後北条氏へ与同…族滅には至らぬものの滅亡
南北朝内乱で体力を消耗した東條氏も應永(応永)11年(1404)までは鹿島大使役記に登場しますので、この頃までは充分な勢力と財力を保っています。
一方、江戸崎には嘉慶元年(1387)に土岐氏傍流の原刑部少輔秀成が関東管領山内上杉憲顕の被官として移住して来ていました(土岐原氏を名乗り、後年美濃の本家を譲られ土岐氏)。
應永(応永)30年(1423)8月、山内上杉清方に従う土岐原憲秀(2代目)は、鳥名木國義、烟田幹胤を含む鹿行諸氏、東條氏らを率いて小栗城(協和町)の山入与義を攻めていますので、東條氏もこの頃は一定の勢力を保っていたことが分かります。
永享12年(1440)の『結城合戦』のときには龍ヶ崎氏に拠っていたもようです。
文明13年(1481)5月5日の常陸國『小鶴原の合戦』のとき、東條氏は常陸大掾氏、北條氏、真壁氏、笠間氏らと共に小田成治に従って水戸の江戸氏と戦っていますので、何とか復活したようですが、その後、土岐氏と姻戚関係を結んで友好的に土岐氏勢力圏へ吸収されたようです。
私は、その背景をつぎのように推測しています。江戸崎土岐原氏4代目の景成が明應6年(1497)に亡くなりましたが嫡男がなく、そこへ付け込んだ小田氏に攻められ敗北。しばらくの間、小田氏に臣従したようです。その後、土岐氏旧臣が美濃から来た治頼を土岐原氏5代目として迎え、大永3年(1523)から勢力を挽回する過程で隣接地の東條氏を誘ったのではないでしょうか。衰亡しつつある東條氏にとっては願ってもないことだったと思われます(
Note)。
天文22年(1553)には既に東條氏は土岐氏の麾下に取り込まれており、この年に土岐氏が小田氏治(天庵)と戦ったとき東條泉城主東條兵部少輔重定(土岐萬木
(まんぎ)氏族なので東條氏への婿殿)が小坂で討死しました。その子乙丸は脇墾田の土民に助けられ、それを知った和泉の土民が乙丸を連れ帰り養育、乙丸は後、東條彦右衞門と改め子孫は龍ヶ崎市で現在に至ります。東條泉氏の位牌は江戸崎観音寺にあり家紋は桔梗とのことです。
弘治元年(1555)、土岐氏の意向に従い東條英重(東條英幹男)が東條泉城主となりました。つぎの来迎院多宝塔銘文から思量するに土岐氏はこの系統を東條氏宗家と扱ったようです。
龍ヶ崎市馴馬の来迎院に現存する多宝塔を土岐氏が主体となって修復した弘治2年(1556)5月付多宝塔相輪の宝珠銘文を江戸後期の考証学者宮本茶村が調査し書き写しており、そのリストから東條氏が土岐氏に協力したことが分かります。
その土岐氏は小田氏との抗争と内紛で疲弊し、佐竹氏の南下政策に対抗するため後北條氏(小田原北條氏)に与したため、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めに伴う常陸國の合戦で標的にされ、秀吉の派遣軍に攻められます。このとき、土岐氏当主治綱は江戸崎城主、その弟胤倫は支城の龍ケ崎城主、治綱の男頼英は支城の東條太田城主でした。
私の直系の先祖東條彈正は天正18年(1590)5月20日、秀吉方蘆名盛重、または配下の神野覚助に攻められ討死、東條太田城落城。最後の東條太田城主となった土岐頼英は幼少のため父治綱の江戸崎城に籠城していたはずで、東條太田城は東條彈正ほか僅かな守備隊が残る程度だったと推測されています(新利根村史(二))。
江戸崎城は秀吉方蘆名盛重配下の神野覚助軍に攻められ同じ5月20日に開城。城主土岐治綱は家臣数十名と共に帰農、男の頼英は叔父胤倫に庇護され蟄居して、それぞれ命脈を保ちました。
宮本茶村編纂の『常陸誌料』によれば、東條氏没落2年前の天正16年(1588)に彈正の父東條兵庫幹要が土岐氏(たぶん)に宛てて「誓書」を書いています。その誓書を書いた兵庫幹要は既に没していたか、または彈正と共に戦死したと思われますので、ここで常陸平氏東條氏は一旦滅亡します(延寶7年(1679)9月16日再興~寛政5年8月19日嗣絶)。
このとき、東條彈正の子の助衞門某が生き残りました。助衞門某は後北條氏方残党探索の手から逃れるため太田に改姓して江戸に潜伏し、太田氏初代となります。
なお、東條氏の生き残りは、上記東條泉氏、東條高田氏、東條大沼氏、東條英機さんの系統、そして東條改太田氏が知られており、東條英機さんのご先祖は遠く東北地方まで逃げたようです。
ちなみに、横浜三渓園の原三溪は土岐氏の裔とのことです。


Note:土岐氏
貞治2年(南朝正平18年)(1363)、山内上杉憲顕が鎌倉御所の招きで関東管領に復職するとき、美濃國守護土岐氏傍流の原刑部少輔秀成を帯同しました。
そして嘉慶元年(南朝元中4年)(1387)、原秀成は山内上杉憲方の被官として江戸崎に移住し信太庄惣政所を開設しました。秀成は、土岐原氏を名乗り初代となります。江戸崎城を本拠とする土岐原氏は、支城の龍ヶ崎城、木原城(美浦村)を築き信太・東條一帯を統治します。
天文12年(1543)、美濃國守護の土岐頼芸が斉藤道三に逐われ、江戸崎の土岐原治頼に土岐氏惣領を譲り、治頼の次の治英から土岐氏を名乗ったと言われます。
土岐氏は小田氏との抗争で疲弊し、常陸國の北の雄である佐竹氏の南下政策に対抗するため後北条氏に与したことから、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに伴う合戦で滅ぼされます。江戸崎城が落ちるとき「一兵たりとも損せずに」土岐治綱が降伏したと言われますが、発掘調査で婦女子を含む夥しい人骨が発見されたそうですから、それほど平和裡に最後を迎えたのではないのかもしれません。死んでから切りつけられたと推測される骨があるとのこと。何か宗教的な意味があるのでしょうか。
土岐治綱は数十名の家臣と共に帰農して命脈を保ちます。治綱の弟で、兄と仲が悪かった龍ヶ崎城主の土岐胤倫は秀吉方の到着前に開城して諸処浪々の身となり、やがて龍ヶ崎に戻って子孫は母方の豊嶋氏を名乗ります。
土岐氏の下にいた東條氏が滅亡させられたにもかかわらず、土岐氏が滅亡を免れたことは秀吉の意志によると推測されます。さらに後年、徳川家康は土岐頼英と誼を通じます。これは、本能寺の変に於いて家康が明智光秀と同盟していたことを意味するのかもしれません。

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