東條太田城跡 余湖様鳥瞰図(改)

『東條太田城跡 余湖様鳥瞰図(改)』 茨城県稲敷市下太田 Googleマップ 東條太田城跡 永暦元年(1160)頃~天正18年(1590) 約430年間在住
『余湖君のホームページ』の余湖さんが描いて下さった鳥瞰図に、私が得た情報を追記・修正しました。「虎口と見られる遺構」と「切岸と犬走り状遺構」を追記、そして「中段の郭(共同墓地)」と「横矢(横矢掛り)」は『美浦村お散歩団』の樋詰さんからの情報を追記したものです。
余湖さん、せっかく描いて下さった素晴らしいセンスの鳥瞰図を汚してしまってごめんなさい。余湖さんが東條太田城を攻略されたおり、私企業の所有地のため衆人環視の中、且つ孟宗竹が繁茂する劣悪な条件の下で観察されて描かれたにもかかわらず正確な鳥瞰図に敬意を表します。
私の場合は新しい所有者に招かれて撮影を許されたことから、その鳥瞰図を拡大印刷したものを2014年10月11日に持参し撮影の度に鳥瞰図上に矢印を置いてカメラに記録しましたので、帰宅してから撮影位置と方向を判断することができました。

図中の①~⑥に該当する写真はつぎのとおりです。
虎口と見られる遺構 全景虎口と見られる遺構 2016年版虎口と見られる遺構 核心部虎口と見られる遺構 核心部出口手前虎口と見られる遺構 下から南西方向虎口と見られる遺構 西方向
横矢掛りから見下ろす中段の郭 西方向
横矢掛りから見下ろす中断の郭 南方向
主郭南端から見下ろす中段の郭
東側の切岸と犬走り状遺構 その1東側の切岸と犬走り状遺構 その2東側の切岸と犬走り状遺構 その3
南側の切岸と犬走り状遺構 その1南側の切岸と犬走り状遺構 その2南側の切岸と犬走り状遺構 その3

虎口に関する考察: 先ず、東條太田城の標高は主郭が約30m、中段の郭が約20mです。周辺の標高は、すぐ下の(旧)太田小学校が6m、その先の田んぼが1~2m、北側の田んぼは4mです。当時は現在より海面が高かったため、南側の田んぼの辺りまで内海が入り込んでいたか、または湿地帯だったと思われます。したがって、比高は(旧)太田小学校からは24m、北側からは26mです。当時の地形はこちら
次に、稲敷市M様は「現在の出入口は南側の(旧)太田小学校裏から上がる坂道を使う構造になっているが、この道路は東條太田城跡地に(旧)太田中学校が建設されるときに取り付けられたらしい。」と仰っています。
以上により、東條太田城の南(南東)側には内海、または湿地帯が広がっていたため出入口がなく、大手口は北側の『虎口と見られる遺構』であり、西側から中段の郭を経て主郭へ上がるルートが搦め手口(裏口)だったのではないかと推測いたします。
なお、上記④主郭南端から見下ろす中段の郭の写真によれば、中段の郭から主郭への連絡通路のような坂が存在します。標高差は僅か10mですから、このような坂で簡単にアクセスすることができます。この坂が当時もあったか否かは分かりませんし、平時のアクセスは木製の階段か梯子のようなものだったかもしれません。
西側の搦手口から攻めてきた敵に対しては、先ず中段の郭入口に設けられた姿隠しの土塁に潜む東條氏方が攻撃します。それを突破して中段の郭に乱入した敵には主郭西側に配置された横矢掛り(上記)から矢を浴びせます。これも突破されそうになったときは、中段の郭から主郭へのアクセスに使っていた木製の階段か梯子を主郭側に引き上げます。または中段の郭から主郭への連絡通路を閉鎖します。
ところで、大手口から攻め入る敵への対応は、どうだったのでしょうか。そのために、上記①のより詳細な構造を知りたいと思います。引き続き、稲敷市M様のご協力とご支援を得つつ進められれば幸甚です。実際、東條太田城は南北朝期の北朝方と、豊臣秀吉勢による2回の落城を経験しており、その何れも大手口からの攻めに抗しきれなかったものと推測されます
なお、2016年2月11日の第2回訪問時に北側の『虎口と見られる遺構』から外へ出られるか否かを確かめたくて突入してみましたが、時間切れのため途中で断念しました。断念した場所から外方向(北方向)を見た写真はこちら

外部リンク
美浦村お散歩団お城歩き稲敷郡域東条城(太田城)
余湖君のホームページ茨城県の城址稲敷市(旧新利根町)東条城
各地区公式サイト: 茨城県稲敷市

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