江戸時代後期の我が家と高祖母の実家

『江戸時代後期の我が家と高祖母の実家』 天保7年(1836)9月10日以降の古地図 水戸市新荘3丁目2丁目 Googleマップ 旧 花小路&楓小路 天保7年(1836)~大正9年(1920) 84年間在住
花小路の「太田九藏」が我が家、楓小路の「三宅八三郎」が私の高祖母きむの実家です。

この一帯は、新屋敷と呼ばれました。水戸9代藩主徳川齋昭によって天保7年9月10日(183610/19)に屋敷割りが成された後、遅くとも天保10年9月21日(1839/10/27)までに天王町からこの地へ引っ越して来て、84年間も住むことになります。
引っ越し当初は、太田九藏歳松(7代目)/千賀夫妻と、子の九藏藏吉歳就(私の高祖父)、その姉が住みました。
藏吉は文久元年(1861)に近所の三宅八三郎家から五女の「きむ」を娶り、元治元年(1864)に私の曾祖父捨吉(9代目)が誕生します。エビデンスはこちら
幕末の天狗争乱、明治維新の荒波をこの地で体験し、太田家の存続に多大な貢献をしたきむが大正7年(1918)、捨吉が大正8年(1919)に相次いで没すると、大正9年(1920)頃に曾祖母ゑい・祖父・その弟、すなわち大叔父の茂は横濱へ転居します。
私自身は茨城県に住んだことがありませんが、結婚するまで本籍地が上の古地図の「太田九藏」の場所でした。祖父から先祖が水戸藩士であったこと、那珂川や大洗の海岸で泳いだことなどは聞いておりましたが、高祖母きむのこと、その実家三宅氏との交流の様子、花小路の様子など、もっと聞いておくべきでした。
DNAに刷り込まれて云々と言われますが、横浜在住の私が仕事で茨城へ行きますと、何か懐かしさを感じました。訪問時点では故地であることが未判明だった地域でも懐かしさを感じました。水戸市はもちろんのこと、つくば市稲敷市等へ行きますと、普通なら夕方になると早く戻りたいという気分になるのに、それが全然なかったのが不思議です。嘗て、そこで暮らしていた安心感のように思います。

戻る  トップページ>『故地』>『元禄時代の我が家』・『江戸時代中期の我が家』・『江戸時代後期の我が家
Copyright © 2002- Sam Ohta/JA1POP All Rights Reserved.