常陸國那珂湊天満宮と東條常言 |
那珂湊天満宮: 茨城県ひたちなか市湊中央1-2-1 寛文元年(1661)に水戸2代藩主となった徳川光圀(義公)は、神仏分離のため那珂湊天満宮に久しく祀られていた十一面観音(Note 0)を排除し、東條常言(つねとき(Note 1))に菅原道真(Note 2)木造の制作を命じて元祿8年(1695)の春、天満宮に御神体として奉納しました。 御神体は神殿に安置され、天狗争乱に於ける元治元年(1864)8月の那珂湊戦争からも、大東亜戦争(太平洋戦争)に於ける昭和20年(1945)の空襲からも、昭和22年(1947)の那珂湊の大火からも天満宮は被災を免れ、さらには昭和47年(1972)10月に不審火で拝殿と御神輿が焼失したときにも神殿は無事だったそうです(Note 3)。 細工人を家業とする太田氏2代目太田一有の次男常言は、祖父の旧姓である東條に復して天正18年(1590)に没落した常陸平氏東條氏を89年後に再興しました。常言は延寶(延宝)7年9月16日(1679/10/20)、水戸2代藩主徳川光圀(義公)に細工人として出仕します。天満宮の御神体を制作した後の常言、そして子孫の東條氏は専ら武家の道を歩み、太田氏が再び細工人を勤めます。 寛永から元禄時代、すなわち江戸時代前期から中期は太田氏・東條氏興隆の最盛期でした。 東條常言の父太田一有は寛永期に水戸初代藩主徳川頼房(威公)に細工人として出仕、続いて光圀からは近臣23名の一人として重用され、延寶5年(1677)頃に致仕して長男太田歳勝に家督を譲りました。 その歳勝が天和3年(1683)から歩行士として『大日本史』の編纂をお手伝いしたため、父の一有は隠居後も細工人の仕事を継続しました。元祿6年(1693)には光圀の命を受けて桂村高久(東茨城郡城里町高久)鹿嶋神社に安置されていた悪路王頭形を修理しています。このとき一有は既に88歳になっていましたので、その後の御細工御用を引き継いだのが次男の東條常言です。 那珂湊天満宮宮司 神永義彦様より御下賜くださいました二つの書籍から東條常言が含まれる部分を抜粋・引用しました。 書籍 第1 『雑録・八朔祭りと屋台の囃子』 平成二十年九月一日発行(非売品),著者 菊池恒雄,発行人 磯前正・梅原徳昭・鴨川正一・高田ヨシ子・三好章,印刷所 (有)川田プリント 下記記事の引用元は『那珂湊市史料』(那珂湊市発行) Page 3 「雑録・八朔祭りと屋台の囃子」 菊池恒雄 天満宮 ひたちなか市湊中央1丁目2-1に鎮座。 祭神は、菅原道真公 (神号=天満天神・天満大自在天神)。 社名天満宮は、神号に由来する。 創建不詳。ただし、岩手県宮古市の長根寺旧蔵「大般若経波羅密多経巻第五百七十」の奥書に「那珂湊天神」と「文和第五」年(1356)の文字がある。これが那珂湊天満宮の初出史料であり、南北朝時代すでに実在した証拠。 この重要史料は、かつて長根寺の所蔵であったが、今は宮古市磯鶏小林家が所有。この史料の写し(筆写)は、現在、「天満宮祭事記録 湊惣年番」箱(年番長が保管するもの、年番引継ぎのとき次年番長へ渡される。俗称びっくり箱)に納めてある。ついては、現宮司神永義彦氏の父、故井上義氏(明治39年生 もと橿原神宮・天満宮々司)の話を付する。 「その写しは、大正期飯塚四郎介社掌のときに送付され、すぐに天満宮祭事記録箱に納めたらしく、ほとんどの人に知られなかったようです。私が昭和17年社掌に就任したとき、前任の田村清雄氏から何の説明もなかったので、その写しの存在をしばらくは知りませんでした。田村社掌は、水戸東照宮常勤のまま、昭和14年に飯塚氏のあとを兼務されたのですが、在職期間は、戦時下のため本祭りはなく連年ご祈祷のみでした。そのようなわけで、年番保管の記録箱まではお気付きにならなかったかもしれません」 さて、菅原道真公(845-903)は、文人学者として古今に類いまれな人、書は空海、小野道風とともに三聖に数えられる。政治家としては右大臣・右大将に昇進したが、讒言によって九州の太宰府に左遷され、不遇のうちに波乱の生涯を閉じられた。時に延喜3年2月25日(903/3/26)のこと。 やがて、道真公の霊が雷火に化したという口承が広がり、朝廷や政敵藤原一族に不幸や災厄が続き、世人もその怨霊を恐れた。後年鎮魂のため神格化され、天満天神として広く祭られ、また正一位太政大臣を追贈された。しかし今は、学問の神様として崇敬を集めている。天満宮は全国各地に約12000社あり、その中で北野天満宮と太宰府天満宮が天神信仰の核心。また、大阪天満宮も著名、その天満祭りは船渡御などが行なわれ、日本三大祭りともいわれている。 さて、第2代水戸藩主徳川光圀公(諡号・義公)は、寛文期に寺社法令を定めて、神仏を分離し淫祠邪教を排除し、それで、いかがわしいもの3000宇余りを廃止または破却された。しかし一方では、由緒正しい社寺の復興、修造あるいは創建に力を尽くされた。中でも吉田神社(水戸)、静神社(那珂)の修造、願入寺(大洗)、小松寺(城里)、清音寺(城里)、大雄院(日立)の復興、祇園寺(水戸)、久昌寺(常陸太田)の創建は有名。 今の那珂湊天満宮が当時仏像を天神として祭っていたため、義公は、寛文期だかにこれを除去されて、元禄8年(1695)に、道真公のご神体を新たに奉納し再興された。その仏像は、水戸徳川家の後楽園(現小石川後楽園・東京都文京区)の庭内に遷されたという(「那珂港名所図画」)。 ◎ご神体の銘文は次のとおり 常州那珂湊 村素有菅廟我 熟視之非菅氏 神官誤来安仏 像異物所以除 去新命東条常 言彫刻彼像鎮 座社内云 元禄乙亥之春 源光圀粛具 なお、天満宮の由来に関する参考資料を記す。 ◎長根寺旧蔵「大般若波羅密多経巻」奥書 <本文略> ◎「手控尾保恵」(郡司藤兵衞 寛政享和期 水戸市元石川町郡司保氏蔵) 寛政弐戌書上 一 鎮守柏原明神 <中略> 一 天満宮 除五石四斗三升三合 田島 但開闢御改伊奈備前守様御代袴田善兵衞殿除御証文其後芦沢伊賀様御代野村久兵衞殿御印御証文有 是ハ先年神躰十一面観音(Note 0)ニ而小川 花蔵院寺内泉蔵院 <引用者注・泉蔵院は義公の寺社整理によって「破却之内」とされたが、華蔵院寺中六供門徒寺の一つとして残り、天保期烈公に廃されたが寺名のみで堂宇残存。のち元治甲子の兵乱にて焼失、以後再建なし> 延宝年中之頃迄致支配候由其後除地社人長門へ被下置 源義公様右十一面観音(Note 0)御取上ゲ菅家之神像へ御筆ニ而縁記御彫付戸張御三方御奉納 <ご神体銘文 上記> 又源成公様菅家真筆之絵像一軸御奉納 ◎「西山遺事里老雑話」(高倉胤明 文政期 水戸彰考館蔵 昭和53年『水戸義公伝記逸話集』所収) 湊村天満宮之事 湊村天満宮来由之事 那珂の湊村天満天神の社は往昔より花蔵院の <中略> 境内に在宮神躰にハ十一面観音(Note 0)を勧請し泉蔵院祭事勤メ来りし由之処寛文中にもや義公様尊慮を以観音をば御引上彼遊候其以後除地御添湊村惣鎮守柏原神社之社守鈴木長門 <引用者注・鈴木長門から9代にわたり、明治期の初めに至るまで累世奉職> へ彼下候と也 扨又元禄八年の春天神之木像を納めさせ給ひ御紋付之戸張三方御添遷宮彼仰付候由 <ご神体銘文 上記> 一 成公様より菅家真筆之画影一軸御奉納彼遊候 除髙五石四斗三升三合 右天満天神を毎年八月三日札場 <引用者注・湊本町10-8の地先、昔の高札場。昭和44年まで天満宮祭礼のお仮屋を設営した> へ出輿し来る事何歟よし有るべきか未だ聞かず ◎「水戸藩神社録」(栗田寛 明治4年 県立歴史館蔵) 天満天神社今湊村にあり菅原朝臣道真公を祭る神体木造に坐す東山天皇元禄八年春贈大納言源光圀の納る所也是れよりさき本社に仏像を安して菅公の神とす此に至て其像を除き家臣東条常言をして新に神像を刻ましむ即此也中御門天皇享保十二年朔参議左近衞権中将宗堯菅公真筆の肖像を以て神殿に納め奉りき凡其祭八月三日四日を用ふ社領五石四斗三升三合神官鈴木氏 <以下略> 書籍 第2 『みなと八朔祭り』 発行日 2010年4月28日,著者 鈴木正樹,発行者 三好仁,発行所 東冷書房,印刷 山三印刷(株) Page 5 「みなと八朔祭り」の由来と沿革 八月朔日(ついたち)を『八朔(はっさく)』といい、毎年家々で嵐除けを祈ったり、神社で祈祷する。“みなと” では、毎年八月三日・四日の二日間『八朔祭り』として盛大に行われてきた。沿革は、明かでないが、一説では寛文年間(1661~1673)に行われていたが、元禄年間に第二代藩主の光圀(義公)が、従来の祭りをあらため、現在に至ったとも伝えられている。 理由は、光圀が寛文年間に天満宮に参拝し、御神体を拝観したところ十一面観音(Note 0)が祀られていた。そのため、光圀は当時有名だった彫刻師「東條常言」に命じて学問の神様といわれる「菅原道真公」の像を造らせ、元禄八年の春、御神体として納めたとつたえられている。 これを契機に、歴代藩主が崇敬し、一段と神威を高め、由緒ある祭礼として『五穀豊穣・漁業繁栄・町内安全』を祈り、「和楽慰安教化」の祭礼として今日まで継承されている(Note 3)。 Note 0: 十一面観音が祀られていたのは、それなりの根拠があるようです。平安時代に天台宗・真言宗が本地垂迹説(Note 4)により神仏習合を推進した(Note 5)とき「十一面観音が菅原是善(これよし)の子として現われ、菅原道真すなわち天神様になった」と唱えられたことが根拠です。しかし、光圀は本来の菅公を祀りたいと考えたのだと推測します。そのお陰で我が家(太田氏)の親戚(東條氏)が仕事を得ることができました。 Note 1: 東條常言の「常言」を、私は「つねとき」と読みますが、本人が何と称していたかは不明です。 Note 2: 菅原道真 承和12年6月25日(845/8/1)生~延喜3年2月25日(903/3/26)没 敬称は菅公 Note 3: 平成23年(2011)3月11日に発生した「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」で天満宮自身、そして祭礼を実行される各町が被災したため平成23年の八朔祭りは中止となりました。 マスコミの扱いは極めて小さいものの、茨城県も大きな被害を蒙っています。那珂湊は震度5.8、4m超の津波に襲われました。不幸中の幸いで、死者はゼロです。津波は天満宮まで達しませんでしたが、漁港を含む沿岸地域は地震と津波、両方の被害を受けました。 天満宮の外見上の被害は、中の鳥居の貫が折れて扁額とともに落下したことと、拝殿前の新しい石灯籠一対が倒壊したことです。拝殿、神殿等の建物に異常はないように見えますが、しかし内部は酷い状態になっていたと想像いたします。 神永宮司をはじめ天満宮に関係する各町の方々と被災された皆様にお見舞いを申し上げます。 Note: 4 [語句説明] 広辞苑によれば、つぎのとおりです。 本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ) = 日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変えて迹(あと)を垂(た)れたものだとする神仏同体説。平安時代に始まり、明治初期の神仏分離により衰えた。 Note 5: 仏様が神様より上の立場であるとする本地垂迹説は寺院が神社を支配する根拠になるため、仏教側が熱心に唱えたはずです。鎌倉時代になると関白藤原兼実の弟慈円は比叡山延暦寺の天台座主を4回も務め、兄弟で寺院の地位向上と朝廷の安定に貢献しました。 謝辞: 東條常言の事績が掲載されている貴重な上記書籍を御下賜くださいました那珂湊天満宮宮司神永義彦様、橋渡しの労を執ってくださいました鶴見の宮野様とご友人の方、上記冊子に東條常言の名を発見してくださいました宮野様のお嬢様と、宮野様のご実弟である平塚の川上様、そして上記書籍に記事を執筆してくださった方々に深く御礼申し上げます。お陰様で、東條氏に関する新情報を得ることができました。 そもそも、宮野様のお嬢様は、このサイトを発見してくださった張本人(?)でもあります。東條氏へ養子をくださった川上氏が現在なお一層ご活躍されていらっしゃることを知ったとき、単なる嬉しさだけでなく縁(えにし)の深さと運命の不思議さを実感しました。 宮野様のご実家は川上様であり、その川上氏から東條氏へ養子を賜わったのは、常言が彫った菅公像が天満宮の御神体として光圀により奉納された元祿8年(1695)から92年後、今から約220年前の天明7年(1787)のことですが、何れも最近のことのように感じます。 ★2010年8月21日、いみじくも宮野様のご実弟である忠(ちゅう)さん(平塚の川上様)、そして宮野様のお嬢様と面会する機会に恵まれました。これによって、一挙に220年の空白が埋まり、縁の糸を実感した一日となりました。ほんとうにありがとうございます。川上様のご母堂は常陸平氏徳宿氏であり、宮野氏もまた徳宿氏の縁者とのこと。常陸平氏として血縁関係にあるということになります。私の子供達も先祖に興味を持ちつつありますので、ご交誼を繋いで行けると期待しております。 ※個人情報保護の観点から、ご氏名を曖昧にしております。 ※忠さん、宮野様のお嬢様とのスリーショットを掲載したいところですが、個人情報保護の観点から控えさせていただきます。私を含めた3名の写真を撮ってくださいました女性お二人に感謝いたします。この写真は、我が家の永久保存版といたします。 ★2010年8月29日、川上様のご紹介により水戸へのバスツアーに参加することができました。その際、期せずして川上氏ご兄弟全員との面会が叶い、充実した一日でした。ツアーのコーディネートをしてくださった「全国歴史研究会」の方々に感謝いたします。神永宮司と水戸家德川様に拝謁できなかったのは残念ですが、しかし、楽しみは後にとっておくことにいたします。 |
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