東皐心越禅師(とうこうしんえつぜんじ)と壽昌山祇園寺(じゅしょうさんぎおんじ) | ||||||||||||||
●明の崇禎12年(日本では寛永16年)(1639)、浙江省金華府浦江県で誕生。8歳で出家、曹洞宗壽昌派で修行。 ●寛文10年(1670) 32歳、興儔の法名を与えられ曹洞宗35世。杭州西湖山中にある永福寺住持となる。 清により明が滅亡すると、明の遺臣により復興が図られたが挫折。心越は日本への亡命を決意。 ●延寶4年(1676) 38歳、船の積み荷の半分を占める大量の荷物を積み込み日本へ向けて出航。 ●延寶5年(1677)正月 39歳、長崎へ入港。しかし、明から先に来日していた黄檗宗が優勢で、曹洞宗の心越は彼等の讒言により長崎で幽閉される。 ●天和元年(1681) 43歳、長崎で幽閉中の心越を德川光圀が救い小石川上屋敷へ迎える。 ●貞享5年(1688) 50歳、水戸へ移る。光圀は心越のために元佐竹氏の菩提寺天徳寺を明の寺院様式に改築。 ●元禄5年(1692)10月 54歳、光圀が開基となり、心越を開山として岱宗山天徳寺開堂式を行なう。 ●元禄7年(1694) 56歳、心越は武藏國金澤の能見堂(擲筆山(てきひつざん)地蔵院)を訪れたおりに眺望が中國の瀟湘(しょうしょう)八景に似ていると絶賛して『武州能見堂八景詩』を詠む。すなわち金澤八景の洲崎晴嵐(すざきのせいらん)・瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)・小泉夜雨(こいずみのやう)・乙艫帰帆(おっとものきはん)・称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)・平潟落雁(ひらかたのらくがん)・野島夕照(のじまのせきしょう)・内川暮雪(うちかわのぼせつ)。(Note 0) ●元禄8年(1695)、心越示寂(Note 1) 57歳。 ●元禄13年12月6日(1701/1/14)、光圀没 73歳。 ●正徳2年(1712)、天徳寺を曹洞宗壽昌山祇園寺と改称。知行100石。曹洞宗壽昌派総本山となる。元の天徳寺は河和田村へ移転。 ●安政5年(1895)、類焼で祇園寺の堂宇が悉く焼失。明治期に再建され現在に至る。 Note 0: 野島夕照の「夕照」の読みは「せきしょう」です。「ゆうしょう」ではありません。ご留意下さい。と申しますのは、我が家は金沢八景に近いのですが、ご近所さんは悉く「のじまのゆうしょう」と読むのです。本サイトの「金澤八景」のページをお読みいただきたいです。 [語句説明] 広辞苑によれば、つぎのとおりです。 Note 1: 示寂(じじゃく) = 菩薩または高僧の死。 |
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祇園寺の所在地: 茨城県水戸市八幡町11-69 この下は、『歴史研究会』>『水戸の会』の企画『歴史を楽しむ会 in 水戸』に参加させていただいたおりの写真です。 |
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