鹿島大使役記(かしまたいしやくき・かしまおおづかいやくき)
鹿島神宮で毎年7月10、11日に行なわれる大祭は朝廷が派遣する奉弊使により祭礼が執り行なわれていましたが、律令制の崩壊による朝廷の財政悪化で長寛元年(1163)の詔により奉弊使の派遣が中止されました。そこで、以後は在地の常陸大掾が大使役を務めるように改められました。
大使役は、常陸平氏7家(鹿島・吉田・行方・大掾・真壁・小栗・東條)が毎年輪番制で担当し、常陸國府の大掾氏以外が大使役を務める場合は、臨時に大掾職が与えられたそうです。
鹿島大使役記から常陸平氏以外を排除することで一族の結束が図られ、外部に対しては常陸平氏の権威を示す効果がありました。
大祭の年と、大使役を務めた家名をリストアップしたものが『鹿島大使役記』で、江戸後期に宮本茶村が『安得虎子
(あんとくこし)』、そして『常陸誌料』の編纂に活用しています。
大使役を務めるには相当の財力が必要ですから、その家が健在か否かを量ることができます。

不思議なのは、南北朝の内乱で南朝方として戦った東條氏が北朝方に降伏したのが暦應4年(1341)10月5日であり、降伏の僅か3ヶ月前の7月に東條氏が鹿島大使役を務めていることです。すなわち、もうすぐ降伏しなければならないような切迫した状況下で大使役を務めたことになります。さらに、降伏の7年後、貞和4年(1348)にも常陸平氏7家の輪番どおり鹿島大使役を務めているということは、財力を含め余力を残しつつ戦い、降伏したことを意味します。また、鹿島大使役は合戦に優先するほどの重大な務めだったのかもしれません。

下記が『鹿島大使役記』の内容です。『歴史年表(PDF)』より引用

建長1年(1249) 吉田大野某
建長2年(1250) 吉田大野
         …
建長6年(1254) 真壁某
建長7年(1255) 小栗東田重信
康元1年(1256) 吉田三郎跡
正嘉1年(1257) 
東條兵部丞光幹(『安得虎子』では忠幹)(年齢から初代忠幹はあり得ない。2代光幹でも90歳くらい。)
正嘉2年(1258) 鹿嶋左衛門尉忠幹
正元1年(1259) 國府佐谷左(右か)衛門尉 (『安得虎子』では正元3年となっているが、これは間違い。『鹿島大使役記』の記録者は正嘉3年としたかったのだろう。3月26日に改元されたので7月は正元元年が正しい。)
文應1年(1260) 行方麻生次郎
弘長1年(1261) 真壁白井
弘長2年(1262) 小栗某
弘長3年(1263) 吉田為幹
文永1年(1264) 
東條孫(村)五郎清幹(東條氏3代目)
文永2年(1265) 鹿嶋幹政
文永3年(1266) 國府岩代
文永4年(1267) 行方小立(高か)
文永5年(1268) 真壁福内(田か)
文永6年(1269) 小栗某
文永7年(1270) 吉田栗崎
文永8年(1271) 
東條孫五郎清幹
文永9年(1272) 鹿嶋宮崎幹親
文永10年(1273) 國府(大掾)某
文永11年(1274) 行方某
建治1年(1275) 真壁某
建治2年(1276) 小栗某
建治3年(1277) 吉田塩井河
弘安1年(1278) 
東條三郎宗幹(東條氏4代目)
弘安2年(1279) 鹿嶋烟田吉幹
弘安3年(1280) 國府(大掾)某
弘安4年(1281) 行方某
弘安5年(1282) 真壁某
弘安6年(1283) 小栗某
弘安7年(1284) 吉田平戸範幹
弘安8年(1285) 
東條某
弘安9年(1286) 鹿嶋中居三郎跡
弘安10年(1287) 國府石河六郎幹親
正應1年(1288) 行方六郎跡
正應2年(1289) 真壁某
正應3年(1290) 小栗孫次郎
正應4年(1291) 吉田東三郎跡
正應5年(1292) 
東條三郎跡
永仁1年(1293) 鹿嶋惣領荒次郎
永仁2年(1294) 國府(大掾)某
永仁3年(1295) 行方中務跡
永仁4年(1296) 真壁某
永仁5年(1297) 小栗某
永仁6年(1298) 吉田四郎跡
正安1年(1299) 
東條某
正安2年(1300) 鹿嶋中村某
正安3年(1301) 國府大掾時幹
乾元1年(1302) 行方某
嘉元1年(1303) 真壁惣領幹重
嘉元2年(1304) 小栗某
嘉元3年(1305) 吉田白方
徳治1年(1306) 
東條某
徳治2年(1307) 鹿嶋烟田景幹
延慶1年(1308) 國府大掾跡
延慶2年(1309) 行方玉造某
延慶3年(1310) 真壁椎尾山田某
應長1年(1311) 小栗某
正和1年(1312) 石川六郎資幹跡 大野弥次郎経幹勤仕
正和2年(1313) 
東條某
正和3年(1314) 鹿嶋中務跡萩原某
正和4年(1315) 國府時幹
正和5年(1316) 行方小高某
文保1年(1317) 真壁椎尾
文保2年(1318) 小栗南方
文應1年(1319) 吉田大戸(次郎三郎國幹子息吉田太郎廣幹)
文應2年(1320) 
東條高田
元享1年(1321) 鹿嶋立原某
元享2年(1322) 國府(大掾)某
元享3年(1323) 行方某
正中1年(1324) 真壁某
正中2年(1325) 小栗某
嘉暦1年(1326) 吉田某
嘉暦2年(1327) 
東條某
嘉暦3年(1328) 鹿嶋林某
元徳1年(1329) 國府(大掾)某
元徳2年(1330) 行方某
元徳3年(1331) 真壁某
元弘2年(1332) 小栗某
元弘3年(1333) 吉田某
建武1年(1334) 
東條某
建武2年(1335) 鹿嶋安房幹詮
建武3年(北朝)/延元1年(南朝)(1336) 國府(大掾)某
建武4年(北朝)/延元2年(南朝)(1337) 行方某
暦應1年(北朝)/延元3年(南朝)(1338) 真壁某
暦應2年(北朝)/延元4年(南朝)(1339) 小栗某
暦應3年(北朝)/興國1年(南朝)(1340) 吉田某
暦應4年(北朝)/興國2年(南朝)(1341) 
東條某 (南朝方として奮戦中、しかも本年10月5日に降伏する状況なのに?)
康永1年(北朝)/興國3年(南朝)(1342) 鹿嶋宮崎幹銓
康永2年(北朝)/興國4年(南朝)(1343) 國府(大掾)某
康永3年(北朝)/興國5年(南朝)(1344) 行方某
貞和1年(北朝)/興國6年(南朝)(1345) 真壁某
貞和2年(北朝)/正平1年(南朝)(1346) 小栗某
貞和3年(北朝)/正平2年(南朝)(1347) 吉田某
貞和4年(北朝)/正平3年(南朝)(1348) 
東條某
貞和5年(北朝)/正平4年(南朝)(1349) 鹿嶋沼尾某
観應1年(北朝)/正平5年(南朝)(1350) 國府(大掾)
観應2年(北朝)/正平6年(南朝)(1351) 行方某
文和1年(北朝)/正平7年(南朝)(1352) 真壁某
文和2年(北朝)/正平8年(南朝)(1353) 小栗某
文和3年(北朝)/正平9年(南朝)(1354) 吉田某
文和4年(北朝)/正平10年(南朝)(1355) 
東條某
延文1年(北朝)/正平11年(南朝)(1356) 鹿嶋徳宿幹綱
延文2年(北朝)/正平12年(南朝)(1357) 國府(大掾)某
延文3年(北朝)/正平13年(南朝)(1358) 行方嶋崎某
延文4年(北朝)/正平14年(南朝)(1359) 真壁某
延文5年(北朝)/正平15年(南朝)(1360) 小栗某
康安1年(北朝)/正平16年(南朝)(1361) 吉田平戸民部尉
貞治1年(北朝)/正平17年(南朝)(1362) 
東條能登守
貞治2年(北朝)/正平18年(南朝)(1363) 鹿嶋青山某
貞治3年(北朝)/正平19年(南朝)(1364) 國府(大掾)某
貞治4年(北朝)/正平20年(南朝)(1365) 行方某
貞治5年(北朝)/正平21年(南朝)(1366) 真壁某
貞治6年(北朝)/正平22年(南朝)(1367) 小栗某
應安1年(北朝)/正平23年(南朝)(1368) 吉田勝藏
應安2年(北朝)/正平24年(南朝)(1369) 
東條某
應安3年(北朝)/建徳1年(南朝)(1370) 鹿嶋仮使新大掾石崎掃部助
應安4年(北朝)/建徳2年(南朝)(1371) 國府永岡某
應安5年(北朝)/文中1年(南朝)(1372) 行方小高某
應安6年(北朝)/文中2年(南朝)(1373) 真壁某
應安7年(北朝)/文中3年(南朝)(1374) 小栗某
永和1年(北朝)/天授1年(南朝)(1375) 吉田大野入道法本子息
永和2年(北朝)/天授2年(南朝)(1376) 
東條某
永和3年(北朝)/天授3年(南朝)(1377) 鹿嶋安房宮崎某
永和4年(北朝)/天授4年(南朝)(1378) 國府某
康暦1年(北朝)/天授5年(南朝)(1379) 行方手賀某
康暦2年(北朝)/天授6年(南朝)(1380) 真壁某
永徳1年(北朝)/弘和1年(南朝)(1381) 小栗某
永徳2年(北朝)/弘和2年(南朝)(1382) 吉田上野
永徳3年(北朝)/弘和3年(南朝)(1383) 
東條某
至徳1年(北朝)/元中1年(南朝)(1384) 真壁鹿嶋立原某
         …
嘉慶1年(北朝)/元中4年(南朝)(1387) 真壁某(鹿嶋津賀幹能とも)(吉田大掾とも)
嘉慶2年(北朝)/元中5年(南朝)(1388) 小栗國府大掾
康應1年(北朝)/元中6年(南朝)(1389) 吉田行方嶋崎(吉田大掾とも)
明徳1年(北朝)/元中7年(南朝)(1390) 
東條某
明徳2年(北朝)/元中8年(南朝)(1391) 小栗某(鹿嶋津賀幹能とも)
         …
明徳4年(1393) 行方玉造某 (前年に南北朝合一)
應永1年(1394) 真壁某
應永2年(1395) 小栗某
應永3年(1396) 吉田闕如
應永4年(1397) 
東條大沼茂幹
應永5年(1398) 鹿嶋烟田某
應永6年(1399) 大掾
應永7年(1400) 行方小高
應永8年(1401) 真壁某
應永9年(1402) 小栗南方御料所
應永10年(1403) 吉田平戸某
應永11年(1404) 
東條高田 (鹿島大使役最終回)

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