『鹿嶋神社社宝の悪路王頭形』 茨城県東茨城郡城里町高久 昭和48年(1973)1月20日 (旧)桂村より文化財に指定 2011年7月17日撮影 カメラ機種名: Canon EOS 5D Mark II, 撮影モード: 絞り優先AE, シャッター速度: 1/160, 絞り数値: 2.8, 測光方式: 評価測光, 露出補正: 0, ISO感度:100, ホワイトバランス: オート, 長秒時露光のノイズ低減: 自動, 高感度撮影時のノイズ低減: 標準, 高輝度側・階調優先: しない, オートライティングオプティマイザ: 標準, 周辺光量補正: する レンズ: EF24-70mm f/2.8L USM, 焦点距離 51.0mm, 画像サイズ: 3744x5616の3000x3800を切り抜いたうえで1024x1297にリサイズ, 画像処理: 垂直遠近補正 悪路王は、蝦夷の首領アテルイ(阿弖流為)に比定されます。桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍として蝦夷討伐に向かわせ、延暦20年(801)、ついに田村麻呂は陸奥國で悪路王を討ち取ります。その首級を携え京に向けて凱旋の途中、この鹿嶋神社に納めたと言われます。ミイラとなっていた首級を、誰かが木像に置きかえたようです。 現在、本殿(神殿)に安置されている頭形はレプリカで、本物は茨城県立歴史館に寄託されているそうです。上の写真は、拝殿入り口上方に掲げられている頭形の写真を撮影したものです。 以下、説明板より引用。 城里町指定文化財 悪路王面形彫刻 当鹿島神社の社宝として伝わるものである。延暦年間(782~806年)坂上田村麻呂が北征のおり、陸奥達谷窟でアテルイ(悪路王)を誅し、凱旋の途中この地を過ぎ携えてきた首級を納めた。 最初はミイラであったがこれを模型化したものといわれる。 高さが50cmほどで形相物凄く優れた彫刻である。 城里町教育委員会 私の直系の先祖太田一有(太田九藏)は、水戸2代藩主徳川光圀の命に従い、傷みの激しかった悪路王頭形を元禄6年(1693)に修理しました。 その後、文政8年(1825)に8代藩主哀公(徳川齋脩)が我が家と同じ細工人の中田籐八郎様に命じて修理しました。 そして天保4年(1833)9月18日に9代藩主烈公(徳川齋昭)(齋脩の弟)が誰かに命じて修理しました。 したがいまして、現存する悪路王頭形に太田一有(太田九藏)の修理の痕跡がどの程度残っているかは分かりません。 |
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