当家の故地に近い小田城址鐘楼台

『小田城跡鐘楼台の桜と説明板 常陸國筑波郡小田 = 茨城県つくば市小田 Googleマップ つくば市小田  2002年3月24日撮影
カメラ機種名: Fuji Film FinePix4500, レンズ: カメラ内蔵 35mm換算36mm固定

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小田城は、鎌倉初期に鎌倉幕府重臣で常陸國守護職となった八田知家が築城しました。知家は小田氏祖となります。
東條氏は、鎌倉初期に源頼朝の指示とはいえ八田知家に謀られて長兄の多気義幹を追放され、次兄の下妻弘幹が滅亡させられたことから基本的には小田氏と敵対関係にありました。
しかし、一方では常陸國の北の雄である佐竹氏の存在は驚異であり、小田氏も同様ですから敵の敵は味方という理論で同盟することもありました。
南北朝内乱期は常陸平氏の内部でも南朝方(宮方)と北朝方(武家方)に分裂しており、大掾高幹、烟田時幹、鹿島幹寛、宮崎(みやがさき)幹明らは佐竹義篤に与して北朝方でした。
そんな状況下、建武4年(南朝延元2年)(1337)に南朝方として挙兵した我が東條氏は小田治久、春日顕國らと同盟して北朝方と戦いましたが劣勢となり、暦應4年(南朝興國2年)(1341)10月に北朝方に降伏、翌11月10日(1341/12/18)には小田氏も北朝方に降伏します。
南北朝の内乱が終息すると小田氏は復活しますが、東條氏は衰退の一途を辿ります。
文明13年5月5日(1481/6/2)の常陸國『小鶴原の合戦』で東條氏は、大掾氏、後北條氏、真壁氏、笠間氏らと共に小田成治に従って水戸の江戸氏を攻めています。したがって、この頃は東條氏も一定の勢力を維持していましたが、しかし、既に同盟ではなく小田氏に率いられる立場だったようです。

外部リンク: 沼六屋(八田氏-->小田氏-->谷田部氏のご後裔である沼尻さんのサイトです。)
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