高祖母 太田きむ

『高祖母 太田きむ』 天保5年10月20日(1834/11/20)生/大正7年8月31日(1918/8/31) 06:45没 於水戸花小路  享年85歳

2024年4月28日、古いアルバムから私の高祖母 きむであると確信できる写真が見つかりました。きむの子捨吉の写真と並んでいますので間違いありません。
スキャナで撮ったオリジナル画像はこちら  除籍謄本はこちら

本日現在、横浜市営日野公園墓地の太田家墓に埋葬されている多くの人の中で、きむのお骨が最古です。昭和44年(1969)、大叔父が水戸の神應寺から改葬しました。理由は、「水戸は遠いので墓参りに行けないから」です。しかし、今なら水戸は決して遠くはありません。改葬すべきだったか否かなどということは、私は意見を述べる立場にはありませんので「現実肯定」です。
それはともかく、私は高祖母きむに特別の恩義を感じています。なぜなら、きむがいてくれなければ太田氏は明治期以降まで存続できなかったからです。
きむは、私の曾祖父 捨吉の母です。捨吉は、水戸藩士にとって最大の悲劇(
Note 1)であり凄惨な内戦状態に陥った天狗争乱(天狗党の乱)の真っ最中の元治元年に誕生しました。
翌年には、捨吉の父であり改革派(天狗党)寄りの太田九藏藏吉歳就(私の高祖父)が『慶應元年(1865)10月25日の一件』に連座し政治犯として水戸赤沼牢に投獄され、慶應3年(1867)没。享年推定48歳。江戸幕府の命にて赤沼牢から解放されたはずですので、獄死ではないようです。連座は、口碑によれば「妬みによる讒言」です。
その結果、弱冠4歳の捨吉が太田氏の家督を継ぎ、捨吉は苦労人である母きむ(楓小路の三宅八三郎五女)の庇護の下に成長しました。きむの実家は、当時の我が家から僅か数軒先です。

捨吉は勉学に励み、水戸の警察官となって太田氏を再興しました。しかし、母きむが大正7年(1918)に85歳で没すると、後を追うように翌大正8年(1919)年に没しました。口碑では「過労死」です。水戸市民の生活を守ろうとする自筆のメモが残されています。
上記は、何れも水戸新屋敷花小路(現 水戸市新荘3丁目)での出来事です。

Note 1: 水戸藩士にとって最大の悲劇は天狗騒乱ですが、水戸領民にとっての最大の悲劇は、私は水戸藩士によって村民が皆殺しにされた生瀬一揆だと思います。
Note 2: 捨吉が受章した勲八等瑞宝章はこちら

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