鹿嶋神社と悪路王頭形 | ||||||||||||
鹿嶋神社(鹿島神社): 茨城県東茨城郡城里町(Note)高久 天應(天応)元年(781)の創建と言われます。当時は休塚明神と称したそうです。武甕槌命(建御雷命)(たけみかづちのみこと)を祭神とし、 悪路王は、蝦夷の首領アテルイ(阿弖流為)に比定されます。桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍として蝦夷討伐に向かわせ、延暦20年(801)、ついに田村麻呂は陸奥國で悪路王を討ち取ります。 その首級を携え京に向けて凱旋の途中、この鹿嶋神社に納めたと言われ、ミイラとなっていた首級を誰かが木像に置きかえたようです。 時代は下り江戸時代になると、私の先祖太田一有(太田九藏)は、水戸2代藩主徳川光圀の命に従い、傷みの激しかった悪路王頭形を元禄6年(1693)に修理しました。 その後、文政8年(1825)に8代藩主徳川齋脩が、そして天保4年9月18日(1833/10/30)に9代藩主徳川齋昭が、それぞれの時代の細工人に命じて修理をさせましたので、現存する悪路王頭形に太田一有(太田九藏)の修理の痕跡がどの程度残っているかは不明です。 『平成23年(2011)東北地方太平洋沖地震』では、城里町は震度5.9でしたから悪路王(のレプリカ)はさぞびっくりしたことでしょう。 悪路王頭形を修理したとき太田一有(太田九藏)は既に88歳でしたので、歴史に残るような仕事はこれが最後になったようです。徳川光圀はまた、太田一有(太田九藏)の次男で太田氏から分家して常陸平氏東條氏を再興した東條常言に菅原道真の木造を制作するように命じ、元禄8年(1695)の春に那珂湊の常陸國天満宮へ御神体として奉納しました。 Note: 平成17年(2005)2月1日、「平成の大合併」で東茨城郡常北町、同郡桂村、西茨城郡七会村の合併により城里町が新設されました。 |
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外部リンク: 城里町商工会>>桂地区 各地区公式サイト: 茨城県>水戸市・城里町>城里町教育委員会>>町指定文化財>>悪路王面形彫刻・鹿島神社本殿彫刻 茨城県立歴史館
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