太田一有作 義公假面

『太田一有作 義公假面』 『水戸義公傳』(佐藤進著 明治44年博文館発行)所載
茨城県常陸太田市 久昌寺所蔵 Googleマップ 久昌寺
『水戸市史』中巻(一) Page 904~917、および Page 947参照

私の直系の先祖、太田一有(
Note 1)が正保4年(1647)に制作した水戸2代藩主徳川光圀(Note 2)20歳の假面です。
マウスカーソルを写真に置くと、延寶5年(1677)に制作した光圀50歳の假面に入れ替わります。
この年72歳の太田一有は、この假面を彫ったのを機に致仕して長男歳勝に家督を譲りますが、彫刻の仕事は続けました。
(Note 3)

なお、久昌寺にはもう一つの義公假面が現存し、それは一有の同僚である細工人の前田介十郎さんが制作した光圀30歳の假面です。前田介十郎さんも、元禄時代には太田一有と同じく西山荘近傍の白坂(しらさか)に住んでいました。

Note 1: 太田一有は、常陸平氏東條氏から改姓した太田氏の2代目です。
一有の祖父、常陸平氏の東條彈正は関東管領山内上杉氏の被官土岐氏に臣従して後北條氏方にあったため、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めに伴う常陸の合戦で秀吉方の蘆名(芦名)盛重(佐竹義宣弟)に滅ぼされました。その子、すなわち一有の父は太田に改姓のうえ江戸へ逃げて潜伏します。
江戸で生まれた一有は細工人として水戸初代藩主徳川頼房(威公)に太田九藏家として出仕しました。
一有は続いて2代藩主徳川光圀(義公)にも出仕し小石川後楽園唐門扁額の題字を彫刻、光圀西山荘へ隠棲するときには近臣23名の一人として西山荘近傍の白坂に屋敷を与えられました。上の假面を原形にして彫刻したと言われる道服姿の義公塑像制作、鹿嶋神社に祀られる悪路王頭形の修理などを行ないました。一有夫妻は長男の歳勝夫妻(歳勝の弟で姓を東條に復して分家した東條常言も一緒かもしれません)と共に江戸からここへ転居し、歳勝は『大日本史』の編纂に従事します。
一有の没年は、つぎの3説がありますが享年は全て91歳です。長寿ですね

①元祿9 丙子年(1696)12月20日(1697年1月12日)・・・・当家現存の位牌
②元祿10 丁丑年2月29日(1697年3月21日)・・・・・・・・・水府系纂、および太田氏系図(PDF)
③元祿11 丑(
Note 4)年12月20日(1699年1月20日)・・・『水戸義公全集』所載『西山過去帳』
Note 2: 義公が「光
」と称するのは天和3年(1683)56歳(延寶7年(1679) 52歳説あり)以降です。それまでは「光」でした。当サイトでは『歴史年表(PDF)』以外は、便宜上ほとんどを光圀と表記しています。
Note 3: 太田九藏歳勝は先ず、父一有の細工人を世襲して水戸藩に出仕、6年後の天和3年(1683)に歩行士に転籍します。この転籍は、光圀が歳勝を『大日本史』の編纂に使うために命じたものと思われます。細工人の仕事は、一有が致仕後も勤めるとともに、歳勝の弟東條常言を細工人として出仕させました。東條常言は、那珂湊天満宮の御神体を彫刻しています。
Note 4: 元禄11年は、丑年ではなく寅年です。「12月20日」は①と一致しますが元禄9年は子年です。「丑」は②と一致します。①~③は、いったいどれが正しいのでしょうか?・・・

外部リンク
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