徳川 光圀 (とくがわ みつくに)
父: 水戸初代藩主徳川頼房
母: 家臣谷重則女の久子(後の久昌院)
兄: 松平頼重(高松初代藩主)
生誕: 寛永5年6月10日(1628/7/11)  場所:  故あって水戸城下柵町の水戸藩家老三木之次(通称: 仁兵衞)邸で誕生・養育
没年: 元禄13年12月6日(1701/1/14)  享年: 73歳  場所: 西山荘  死因: 胃ガンまたは食道ガン(推定)
幼名: 三木長丸、徳川千代松
諡: 義公
墓所: 瑞竜山

頼房の三男。水戸2代藩主。
頼房は久子が光圀を懐妊したとき、兄の尾張初代藩主徳川義直と紀伊初代藩主徳川頼宣にまだ子ができていないことを憚り(異説あり)、水に流すように命じた。しかし、久子は頼房の養母英勝院の計らいにより水戸城下柵町(水戸市宮町)の家老、三木仁兵衞之次
(みき にへえ ゆきつぐ)邸で出産、光圀は三木氏の子として養育される。
日陰の身を体験したためか少年期は放縦に流れ、15歳頃から夜な夜な旗本の悪ガキや歌舞伎者とつるんで江戸の街中へ繰り出し、辻斬りまでしたと言われる。家臣等が諫言するも聞き入れず。
そんな光圀も、正保2年(1645)18歳のとき司馬遷の史記『伯夷列伝』を読んで感銘を受け、実兄の頼重への処し方を熟考し、また史書(後に『大日本史』)の編纂を志したとされる。
光圀は、江戸末期に創作された『水戸黄門漫遊記』に於ける黄門様のモデルとなる。

略歴:
●寛永9年(1632) 5歳。水戸城へ入る。
●寛永10年(1633)11月 6歳。3代将軍德川家光の命により世嗣に決定。同年12月 水戸城から江戸小石川の水戸藩中屋敷へ移る。
将軍の命とはいえ、長男(次男は夭逝)の頼重を差し置くかたちで世嗣となったことを生涯気にかけたと言われる。
●寛永11年(1634) 7歳。英勝院に伴われ江戸城で3代将軍徳川家光に拝謁。
●寛永13年(1636) 9歳。元服し3代将軍 家
から偏諱を賜わり國と改む。
●寛永20年(1643) 16歳。父頼房の養母英勝院(家康側室お勝)の一周忌のため頼房鎌倉英勝寺仏殿を改築するとともに祠堂唐門鐘楼を建立。光國は墓塔を建立。高松初代藩主となった兄の松平頼重山門を建立。
●正保4年(1647)~明暦3年(1657) 20~30歳。この間に自らの假面太田九藏(一有)(42~52歳)に彫刻させる。
●承應3年(1654) 27歳。後水尾天皇の実弟で前関白近衞信尋の次女尋子と結婚。
●明暦3年2月27日(1657/4/10) 30歳。駒込別邸に史局を設け4人で史書(後に『大日本史』)の編纂に着手。
●寛文元年8月19日(1661/9/12) 34歳。父頼房没により水戸2代藩主となる。11月14日、母靖定夫人(谷久子(久昌院))没。
●寛文4年(1664) 37歳。儒学に通ずる光國は、孟子の教え「長幼の序」に従うため長男頼常を、兄で高松初代藩主松平頼重の養嗣子に出す。(頼常は寛文13年2月19日(1673/4/6)、養父松平頼重没により高松2代藩主となる。)
●寛文5年(1665)6月 38歳。万治2年(1659)に明から亡命して長崎にいた儒学者朱舜水((万暦28年10月12日(1600/11/17)-天和2年4月17日(1682/5/24))に史局員の小宅処斎を派遣して招聘。同年7月、舜水は江戸へ移住し水戸藩駒込別邸に居住、藩儒(
Note 1)となる。光圀は舜水の逝去まで師事。
この頃から、父頼房が中屋敷として造営した小石川藩邸を上屋敷(政庁兼藩主居館)として整備。庭園の潤色に朱舜水の意見を採用。上屋敷書院側庭園を内庭(うちにわ)、唐門を設置してその向こうを後園と呼ぶ。
●寛文8年4月8日(1668/5/18)~同9年3月19日(1669/4/19) 41~42歳。この間に朱舜水の提案により小石川上屋敷後園の名称を『後樂園』と決定。宋の范文正の『岳陽楼記』に記された「士當先天下憂而憂後天下之樂而樂(士はまさに天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)」による。唐門扁額の題字を太田九藏(一有)(63~64歳)に彫刻させる。『後樂記事』(
Note 2)によれば、「唐門扁額の題字『後樂園』は朱舜水の筆にして太田九蔵(一有)が彫刻せるもの」とされる。光圀は『後樂園』を江戸市民に解放。光圀死後の元禄末期に開放は中止。
小石川上屋敷の一部は現在の小石川後楽園であり、唐門は昭和20年(1945)の空襲で焼失(令和2年(2020)復元成る)。
●寛文11年(1671)6月 44歳。高松初代藩主松平頼重の次男綱條を養嗣子に迎える。(当初、頼重の長男綱方を迎えたが早世。)
●寛文12年(1672) 45歳。史局を小石川上屋敷へ移して彰考館と命名。略称は史館。
●延寶(延宝)元年(1673) 46歳。久昌院の13回忌に当たり一寺建立を決意。七堂伽藍建造、久慈郡稲木に着工。
●延寶(延宝)2年(1674) 47歳。鎌倉英勝寺を訪れ、英勝院の33回忌法要を行なう。
●延寶(延宝)4年(1676) 49歳。この年から元祿6年(1693)までの18年間に史書編纂のため史館員を九州、四国、中国、京都、北陸へ派遣して調査を行なう。大小規模で合計13回。
●延寶(延宝)5年(1677) 50歳。この年、延寶(延宝)元年に久慈郡稲木に建造が開始された七堂伽藍竣工。先に水戸城下に建立した経王寺をここへ移し久昌院に因んで久昌寺と称す。久昌寺はその後、明治3年(1870)に現在地へ移転。
この年、清により滅亡した明からの亡命僧、東皐心越禅師が長崎へ入港するも、先着の別の宗派の讒言により長崎で幽閉される。
この頃、自らの假面太田九蔵(一有)(72歳)に制作させる。
●天和元年(1681) 53歳。長崎で4年間幽閉されていた心越禅師 43歳を救い小石川上屋敷へ迎える。
●天和3年(1683) 56歳。光
から光に改む。(延寶7年(1679) 52歳説あり)(Note 3)
●貞享5年(1688) 61歳。心越禅師を小石川から水戸へ移す。光圀は心越禅師のために元佐竹氏の菩提寺岱宗山天徳寺を明の寺院様式に改築。心越禅師は元禄8年(1695)の示寂までここに居住。正徳2年(1712)、天徳寺を河和田村へ移したうえで元の天徳寺を壽昌山祇園寺と改め心越禅師を開山とする。開基は光圀。
●元禄3年10月14日(1690/11/14) 63歳。致仕して養子の綱條を水戸3代藩主とし、ここに水戸・高松両藩の藩主交換を実現(
Note 4)。この年、権中納言に叙される。
●元禄4年5月3日(1691/5/30) 64歳。、西山荘に隠棲。近臣23名を帯同。細工人は前田介十郎と太田九蔵(一有)(86歳)の2名。『西山の藩士総勢僅かに23人のみ』と。西山荘にて史書の編纂を加速。
●元禄5年(1692)10月 65歳、光圀が開基となり、心越禅師を開山として岱宗山天徳寺開堂式を行なう。
●元祿6年(1693) 66歳。桂村高久(茨城県東茨城郡城里町高久)の鹿嶋神社に祀られ傷みの激しかった蝦夷の首領阿弖流為(アテルイ)に比定される悪路王頭形の修理を太田九蔵(一有)(88歳)に命ず。
●元禄7年11月22日(1695/1/7) 67歳。5代将軍綱吉の招きで江戸城にて綱吉に面会。綱吉は光圀に大学の講義を求め、光圀は応じる。藩邸に戻った光圀は、老いたため江戸へ出るのは今回限りとして、翌23日に小石川上屋敷にて能楽を開催する旨を告知。
翌23日、諸臣とその妻子を招いた能楽のおり、楽屋で家老の藤井紋太夫徳昭を押さえつけ首筋から胸に向けて脇差しで刺して誅殺。光圀は、その後に能を舞った。
誅殺の理由は諸説あって真相は不明だが、将軍綱吉の側用人柳澤吉保・吉里父子と紋太夫が結託した謀が露呈したらしい。紋太夫は美女を柳澤吉里の妾としたうえで、紋太夫吉里の妾吉里 というルートで「光圀乱心」という噂を流した。吉里が江戸城中で阿部正武に伝えると、正武はそれを信じず口論となり同僚の仲裁で収まった。それが桂昌院の耳に入り、綱吉による11月22日の光圀召喚に至ったと言われる。
この年、心越禅師が武藏國金澤を訪れ、景観が瀟湘(しょうしょう)八景に似ていると絶賛して金澤八景の洲崎晴嵐
(すざきのせいらん)・瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)・小泉夜雨(こいずみのやう)・乙艫帰帆(おっとものきはん)・称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)・平潟落雁(ひらかたのらくがん)・野島夕照(のじまのせきしょう)・内川暮雪(うちかわのぼせつ)を命名したと言われる(金澤八景という名称自体は慶長年間から存在したらしく、景勝の地であることは平安時代から世に知られていた。)。
●元祿8年(1695) 68歳。太田九蔵(一有)(90歳)の次男東條常言に制作させた菅原道真木像を、この年の春常陸國那珂湊天満宮へ御神体として奉納。同年9月晦、心越禅師示寂 57歳。
●元祿12年(1699) 72歳。『水府系纂』の編纂開始を命ず。この年、水戸藩領飛知(
Note 5)の行方郡板久邑を潮来村に改称。

Note 1: [語句説明] 広辞苑によればつぎのとおりです。
藩儒(はんじゅ) = 藩主に仕える儒者。
Note 2: 『後樂記事』 = 元文元年(1736)源信興著
Note 3: 義公には申し訳ありませんが光と光の使い分けが煩わしい(から光に改めた時期が光圀56歳と52歳の2説が存在する)ため、このサイト内では区別が必須の場合を除いて光で統一させていただきました。
の文字は9歳のときに三代将軍家光から光の字をもらい、『晋書陸雲傳』に「聖徳竜 興して大を光有す」とあるを以て決定されました。それを変更した理由は不明ですが、皇室との関係が深まった時期であり、を使うことを遠慮 したのかもしれません。一方、は唐の暴悪な女帝則天武后が作った文字であり、熟知するはずの光國が何故にこれを採用したかは不明です。
Note 4: このタイミングで致仕した理由は不明ですが、5代将軍徳川綱吉に対して「生類憐れみの令」を悪政と指摘し諫めるほどだった立場が弱まり、幕府を牛耳る柳澤吉保が光圀の失脚を謀ったことも、その一つのようです。それに絡む家老藤井紋太夫の不穏な動きを察知して3代藩主を確定しておかねばならないと考えたのかも知れません(私の勝手な推測)。
長男の頼常を高松へ養子に出し、高松から綱條を養子に迎え入れ、自らが致仕して綱條を水戸2代藩主としたことで水戸・高松の藩主交換が実現します。しかし、後に高松から水戸へ養子が入ったため、現在の水戸徳川家は光圀の血筋に戻っているそうです。
Note 5: 広辞苑によれば、つぎのとおりです。
飛地(とびち) = ①(「飛知」とも書く)近世、城付きの領地に対して遠隔地に分散している知行地。②同じ行政区画に属するが、他にとび離れて存在する土地。

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