徳川 頼房 (とくがわ よりふさ) (Note 1) |
父: 江戸幕府初代将軍徳川家康 母: 家康側室於万。養母は於梶(後の英勝院)。 生誕: 慶長8年8月10日(1603/9/15) 場所: 伏見城 没年: 寛文元年7月29日(1661/8/23) 享年: 59歳 場所: 水戸城 幼名: 鶴千代 諡: 威公 墓所: 瑞竜山 家康の十一男。 ●慶長11年(1606) 常陸國下妻10万石藩主。 ●慶長14年(1609) 常陸國水戸25万石初代藩主。 ●慶長16年(1611) 元服して松平頼房と名乗る。これまで幼少のため駿府にいて家康の庇護を受ける。 ●元和8年(1622) 3万石を加増され28万石。 ●寛永6年閏2月朔(1629/3/25) 3代将軍徳川家光より小石川に宅地76,689坪を賜い中屋敷として造営(Note 2)。同年9月28日(1629/11/13)に竣工し代官町の屋敷から公居を移す。 ●寛永10年(1633)3月、寛永13年(1636)9月、寛永17年(1640)10月、正保元年(1644)3月に家光が小石川中屋敷へ来訪し作庭に助言。 ●寛永13年(1636) 徳川賜姓により徳川頼房と名乗る。 ●長男は讃岐高松藩主松平頼重。次男亀丸は夭逝。三男は水戸2代藩主となる徳川光圀。四男頼元は額田松平氏、五男頼隆は府中松平氏、六男頼雄は宍戸松平氏となる。 ●寛永19年8月23日(1642/9/17)、養母英勝院入寂。享年65歳。 同年9月20日、幕府により規式に則った表向きの葬儀が鎌倉由比ヶ浜で執行され、英勝寺に於いては100余の僧による千部経転読供養が営まれる。葬儀には頼房・光圀父子、太田資宗・資次父子らが参列、尾張・紀伊徳川家、譜代大名らが焼香。 ●寛永20年(1643) 養母英勝院の一周忌のため頼房は鎌倉英勝寺の仏殿を改築し、祠堂、唐門、鐘楼を建立。長男で高松藩主となったばかりの松平頼重は山門、その弟光圀は墓塔を建立。 ●寛文元年2月8日(1661/3/8)、就藩の命を受け同月水戸へ就藩。 ●同年6月に体調を崩し、7月29日(1661/8/23)、水戸城にて没す。 Note 1: 太田氏2代目の一有は、細工人太田九藏家として頼房に出仕しました。 Note 2: その後、小石川中屋敷は2代藩主徳川光圀が上屋敷として整備し、一部を「後楽園」と名付けて江戸市民に開放されました(光圀の死後、開放中止)。 |
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