東條太田城跡 (下記説明は常用漢字で記述) |
稲敷市指定史跡 史跡名: 東条城跡 指定日: 昭和50年(1975)1月12日 所在地: 茨城県稲敷市下太田357 築城者: 東条五郎左衞門尉忠幹 築城年: 永暦元年(1160)頃 居城者: 東条氏・土岐氏 現存遺構: 北側に虎口状遺構。東斜面・南斜面に切岸と犬走り状遺構。主郭西側に横矢掛り。その下に中段の郭(腰郭)(現共同墓地)。共同墓地入口左側に姿隠しの土塁。 昭和26年(1951)2月に地元有志により建立された石碑あり。碑文は『土岐氏居城 東條城跡 守護太田中學校』。その石碑が3.11(平成23年東北地方太平洋沖地震)により倒壊・破損したため現在の敷地オーナーにより建てかえられた石碑はこちら。 沿革: 常陸大掾平国香から6代後の平直幹には長男義幹・4男弘幹・5男忠幹・6男長幹の4男あり。次男・3男は早世と見られ、平安後期に長男を除く3子へ順次常陸国内の領地を割譲。東条五郷と呼ばれるこの一帯は5男忠幹に譲渡した。忠幹は永暦元年(1160)頃、この地に東条城を築いて東条五郎左衞門尉忠幹と名乗り東条氏祖となる。 治承から文治の源平争乱では坂東諸平氏の多くが頼朝に与する中にあって非協力的な態度を貫き、寿永2年(1183)の志太義広の反乱では義広に与して頼朝に敵対したため鎌倉幕府から冷遇され、佐竹氏・小田氏・北条氏らから圧迫された東条氏は、領地へ東条高田氏・東条大沼氏・東条社氏など複数の分家を配置して嫡流を不明確にし、幕府御家人国井氏・中郡氏・那珂氏らと姻戚関係を構築し、加えて康元元年(1256)8月以前に東条の地を熊野新宮速玉社へ寄進・立荘する等の対策を講じて所領確保に努め鎌倉期を乗り切る。 南北朝内乱初期の東条荘は全盛期を迎えた東条氏の統治が確立していたが、延元元年(北朝建武3年)(1336)1月、北朝方足利尊氏が東条五郷の一つ高田を佐佐木定宗に宛行。高田郷を没収された東条氏は南朝へ靡き、備えとして神宮寺城を築く。 延元2年(北朝建武4年)(1337)7月、常陸南朝勢が東条城に挙兵。早くも同月、東条城は北朝方烟田時幹に攻められる。 延元3年(北朝暦応元年)(1338)、南朝の准后北畠親房は勢力立直しのため500艘の大船団で陸奧へ向け伊勢を出航するも同年9月9日(1338/10/22)、遠州灘で台風に遭い四散。親房主従は同年同月11日(1338/10/24)、再度の烈風で信太郡東条浦(桜川地区)へ漂着。ときの地頭東条氏(能登守か)の案内で神宮寺城へ入る。 同年10月5日(1338/11/17)、北朝方佐竹義篤が大掾高幹、鹿行の鹿島幹寛・烟田時幹・宮崎幹顕ら北朝勢力を糾合して霞ヶ浦を渡り神宮寺城へ来攻。東条氏の神宮寺城は程なく落城。親房一行は近傍の阿波崎城へ移り、救援の小田治久により小田城へ入る。 興国2年(北朝暦応4年)9月17日(1341/10/27)、北朝方屋代彦七信経・別府幸実ら北朝勢が東条城を含む南朝方の城を攻略。同年10月5日(1341/11/14)、東条氏は余力を残して降伏する。 一方、嘉慶元年(北朝元中4年)(1387)頃、美濃国守護土岐氏庶流の原刑部少輔秀成が関東管領山内上杉憲方の被官として江戸崎へ移住し信太庄惣政所を開設。土岐原氏を名乗り江戸崎土岐氏祖となる。江戸崎城を築いて本拠とする土岐原氏は明応6年5月17日(1497/6/17)、4代景成が嗣子なく没したため内紛が発生。永正7年(1510)頃、江戸崎城は土岐原氏一部家臣の内通により小田成治に横領された可能性あり。永正年中(1504~1520)、土岐原氏家臣が美濃国守護である本家土岐政房の3男治頼を養子として迎え江戸崎土岐氏5代当主とする。 大永3年3月9日(1523/3/25)の屋代城合戦で、土岐原治頼・近藤勝秀・臼田河内守ら山内上杉氏方が、信太氏・多賀谷氏・真壁氏・小弓公方ら小田政治勢に勝利。これを機に土岐原治頼が信太・東条・河内の旧領奪回を開始。江戸崎城を奪還した治頼は、勢力挽回策の一つとして天文22年(1553)までに東条氏と姻戚関係を結び麾下に組み入れて東条城は土岐氏の支城となる。 天文11年(1542)、土岐原治頼の兄美濃国守護土岐頼芸が守護代斉藤道三から最初の攻撃を受ける。頼芸は土岐原治頼の子治英へ系図と鷲の絵を贈る。天文12年(1543)、頼芸は治頼に家牒を譲り土岐家総領たることを許す。治頼は、子の治英の代から土岐氏に復すことを決断したとされる。天文21年(1552)、頼芸は斉藤道三から三度目の攻撃を受け美濃を逐われる。 土岐氏は佐竹氏の南下政策への対抗策として後北条氏と同盟したことから、豊臣秀吉の小田原征伐に伴う常陸国の合戦に於いて秀吉派遣軍に攻められる。このとき東条城最後の城主土岐頼英は幼少のため父治綱の江戸崎城に詰めていたと見られ、僅かな守備隊が残る東条城は天正18年5月20日(1590/6/21)(推定)、秀吉方芦名盛重に東条弾正が討たれ落城。東条氏族の生き残った者は各地へ敗走。太田修の先祖は東条庄太田に居住していたことから太田に改姓して江戸に潜む。江戸崎城は芦名盛重配下の神野覚助に攻められ、東条城と同日に開城。最後の城主土岐治綱は家臣と共に帰農、治頼の男(むすこ)頼英は叔父胤倫に庇護され蟄居して、それぞれ命脈を保つ。秀吉が土岐氏を許したのは、治綱を高田須に留め置く間に家康が本能寺の変に於ける命の恩人である明智氏、ひいては土岐氏の存続を主張したためではないか。この推測は、後に徳川家康が東条城最後の城主であった土岐頼英と誼を通じたり、土岐氏、明智氏関連の人物を男女ともに厚遇した事実を以て補強される。また、家康は江戸崎落城以前にこの地域に於いて佐竹氏を牽制する動きを開始したとされる。 東条城跡地は畑となり、(旧)太田中学校用地、建材会社の工場用地を経て現在に至る。 東条氏(Note 1)と東条城(当サイトでは東條氏、東條太田城 と表記)につきましては2002年から『故地』に掲載しておりましたところ、敷地の現オーナーである稲敷市M様のご厚意で2014年10月11日、建材工場の建物が撤去され更地になった様子を見学・撮影できるという好機に恵まれましたので、この特集ページを新設しました。 築城が永暦元年(1160)頃、落城が戦国期の天正18年5月20日(1590/6/21)(推定)の東條太田城は、中世の城ですので天守も石垣もありません。しかし防御施設は備えており、遺構が現存します。下記の写真で報告しておりますので、どうぞご覧ください。 |
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