近所の話題 |
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鎌倉英勝寺 | 太田道灌の玄孫で、徳川家康の側室として寵愛された於勝が家康没後に出家し英勝院と号して江戸初期に3代将軍德川家光や家康11男で水戸藩祖となった徳川頼房の支援を得て太田道灌邸跡地に開いた、鎌倉に残る唯一の尼寺です。水戸家にとっても徳川将軍家にとっても大切な寺であり、多くの水戸藩士が交替で出張し勤務していました。 我が太田氏は太田道灌と直接の関係はありませんが、英勝寺には分家の東條常房が宝暦~安永年間に水戸藩士として生涯に3回出張しました。 その東條氏へ養子をくださった川上氏からも英勝寺へ、しかも家老として宝永元年(1704)から同5年(1708)まで出張したそうです。宝永4年(1707)の富士山噴火の際、鎌倉では16cm以上も火山灰が積もりましたので、処理でさぞ大変だったと想像いたします。 さらに、寛政11年(1799)には私の高祖母「きむ」の祖父三宅八三郎富盛が、奇しくも東條常房と同じ職掌の「英勝寺方丈付属の奥方番」として出張しています。 加えて、私は伽藍の彫刻の一部は太田氏2代目の作ではないかと推測していますので、英勝寺に特別の思いがあります。 ★2013年5月17日、文化審議会が鎌倉英勝寺の仏殿・山門・鐘楼・祠堂・祠堂門を国重文に指定するよう文科相に答申しました。官報告示はこちら。 各地区公式サイト: 神奈川県>鎌倉市 茨城県>水戸市 |
★山門復興事業: 関東大震災で全壊し80年近くもの長期間、近所の別の場所へ移築されていた山門は、平成13年(2001)に部材が英勝寺に戻り、10年をかけて平成23年(2011)に再建が成りました。 | |
鶴岡八幡宮 | 源氏の守護神。全国的に有名な八幡様。英勝寺から近いです。 |
稱名寺・金澤文庫 | 北條實時(北条実時)が邸内に開いた稱名寺(称名寺)と、境内に設けた図書館である金澤文庫(金沢文庫)。墓所には、北條實時とその一門、實時の子北條(北条)顕時、そして孫金澤(金沢)貞顕の墓もあります。 各地区公式サイト: 神奈川県立金沢文庫 |
金澤八景: 命名 = 心越禅師/絵 = 歌川広重 | |
長浜公園と 富岡総合公園 |
長浜公園: 野鳥観察、紅葉、散歩、スポーツ。 富岡総合公園: 花見、紅葉、散歩、スポーツ。展望台からは東京湾と房総半島が望めます。 各地区公式サイト: 神奈川県>横浜市 長浜公園・富岡総合公園 シーサイドライン(横浜新都市交通(株)) |
六国峠ハイキング コース |
京浜急行金沢文庫駅~能見堂跡~金沢動物園(特集)~六国峠(天園)~鎌倉宮・荏柄天神社というルートを紹介します。 六国峠(天園)からは、瑞泉寺や建長寺へ降りるコースもあります。 |
『壽福寺(寿福寺)』 鎌倉市扇ガ谷1-17-7 壽福寺は、北條政子の夫である源頼朝の先祖ゆかりの地です。境内の最奥に位置する源氏山の麓にたくさんのやぐらが並んでおり、その中に北條政子の墓と鎌倉3代将軍源実朝の墓があります。壽福寺は、明月院とともに私の先祖調査に於ける恩人『宮本茶村』ゆかりの地です。 |
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『明月院の紅葉』 鎌倉市山ノ内1897 開基: 山内上杉氏祖で関東管領の上杉憲方, 開山: 密室守厳, 本尊: 聖観音菩薩 本堂後庭園の紅葉です。方丈の丸窓から観た紅葉はこちら。明月院は、私の先祖調査に於ける恩人『宮本茶村』ゆかりの地です。 |
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『海蔵寺』 鎌倉市扇ガ谷4-18-8 開基: 扇谷上杉氏定, 開山: 心昭空外 英勝寺前の道をさらに600mほど谷(やと)(やつ)の奥へ進むと海蔵寺があります。鎌倉市が設置した、的確な案内標識に従って歩けば迷わずに行けます。左は本堂です。 山門はこちら。境内はこちら。福寿草はこちら。 |
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『寶戒寺(宝戒寺)のしだれ梅』 鎌倉市小町3-5-2 開基: 後醍醐天皇, 開山: 円観慧鎮, 創建: 建武2年(1335) 元弘3年(1333)、新田義貞による鎌倉攻めで自刃した870名余の北條一族の霊を弔うため、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて北條氏の邸宅跡に開いたお寺です。ロウバイはこちら。福寿草はこちら。 |
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『横浜三溪園』 横浜市中区本牧三之谷58-1 三溪園は、実業家・生糸商の原三溪(本名: 富太郎)が自らの庭園を明治39年(1906)5月1日から無料公開したものです。現在は入園料金¥500です。三溪園のアオサギはこちら。三溪園のハスはこちら。 |
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『横浜公園のチューリップ』 横浜市中区横浜公園 2008年4月6日、素晴らしいチューリップの花を楽しませていただきました。 ここ横浜公園から距離1.3Kmに広がる、みなとみらい地区のランドマークタワーと帆船日本丸はこちら。 |
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『みなとみらいの夜景』 横浜港大桟橋より 『横浜港大さん橋国際客船ターミナル』内での披露宴の後、屋上に上がると目を見張る光景が広がっていました。この写真で作ったQSLカードはこちら。昼間のランドマークタワーと帆船日本丸はこちら。 |
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『野島公園』 横浜市金沢区野島町24 野島頂上の展望台です。野島の一角には、復元工事が完了して平成21年(2009)10月31日 13:00から一般公開された「旧伊藤博文金沢別邸」があります。門と玄関はこちら。外観はこちら、客間からの眺めはこちら。 |
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『横浜金澤七福神の御朱印』 横浜市金沢区内 2016年1月10日 2014年の御朱印はこちら 【スタート】 9:00より各寺社 巡拝順序自由(下記は私の場合) No. 1: 蛭子尊(えびす様) 富岡八幡宮 富岡東4-5-41 No. 2: 布袋尊(ほてい様) 長昌寺(2012年版) 富岡東3-23-21 No. 3: 福禄寿(ふくろくじゅ) 正法院 釜利谷東3-4-24 No. 4: 弁財天(べんてん様) 瀬戸神社 瀬戸18-14 ~「鰻松」で特上鰻重~ No. 5: 大黒天(だいこく様) 龍華寺 洲崎町9-31 No. 6: 毘沙門天(びしゃもんてん) 傳(伝)心寺 町屋町16-28 No. 7: 寿老人(じゅろうじん) 寶(宝)蔵院 柴町214 【ゴール】 横浜・八景島シーパラダイス 16:00 受付終了 |
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『旧川合玉堂別邸の玄関』 横浜市金沢区富岡東5-19-22 画室はこちら。紅葉はこちら。 ★残念なことに、旧川合玉堂別邸は2013年10月16日の朝、火災により主屋が焼失してしまいました。 |
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豊嶋父子供養塔 慶珊寺 直木三十五文学碑 元 直木邸門前 慶珊寺隣接地 孫文上陸の地記念碑 慶珊寺脇 |
富岡八幡宮 横浜市金沢区富岡東4-5-41 建久2年(1191) 源頼朝が、この地の民屋鎮護のため摂津國西宮神社の蛭子尊(ひるこのみこと)を勧請しました。この時点では、まだ『八幡宮』ではなく『富岡御祭神』です。 嘉禄3年6月15日(1227/7/29) 蛭子尊祭礼のおりに現われた旅僧に、貧しい老爺が食物がなかったので麦酒(ビールに非ず)を与えたところ、旅僧が「吾は八幡の神である。吾を祀れば厄を除け福を与える」と言ったため八幡大神を併せて祀り『富岡八幡宮』となりました。 八幡大神(はちまん おおかみ)、蛭子尊(ひるこのみこと)、天照皇大神(あまてらす すめ おおかみ)の三柱が祀られています。 社殿が改修され立派な社務所も完成して、正月はもちろん、11月は七五三で賑わいます。私の娘は、ここで結婚式を挙げました。 「身体守護」のお守り、「勝つ」お守り、「うまく行く」お守り、天然石の「まが玉」お守り等があります。 蛭子尊、すなわちエビス様が祀られていることから、2005年に町興しを目的として始まった横浜金澤七福神巡り(上記)のスタート地点となっており(上記『横浜金澤七福神巡りの御朱印』のとおり、2012年からスタートはどの寺社からでもOKになりました。)、毎年正月に開催されています。歩きたい人には、とても良いイベントです。 外部リンク: 富岡八幡宮 應長(応長)の大津波と「並木」の地名由来 『歴史年表(PDF)』應長元年(1311)参照 鎌倉時代末期の應長元年5月18日(1311/6/5)夜、大津波が押し寄せ、現在の金沢区長浜から2 kmほど先の海岸線地帯にあった長浜千軒と呼ばれる大きな漁村が砂州ごと流され一夜で水没してしまったとされます。しかし、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には地震も津波も記録がないので、局地的な地殻変動かもしれません。 家と土地を失った人々は住む場所を求め、現在の金沢区柴、州崎、六浦、富岡、磯子区氷取沢等に移住しました。 東京湾対岸の千葉県富津市の鹿島、小山、斎田、森田姓の人の多くは、このとき漂着した人達の子孫であると言われます。 水没した砂州には、大木の松並木がありました。砂州は浅瀬となり魚の集まる良い漁場で、漁師は「並木の瀬」と呼びました。松の幹や根が漁師の網にかかったこともあるそうですし、700年後に横浜市が埋め立てるときにもまだ海面下に残っていたそうです。これが、金沢区の埋立地にある大きな団地の「並木」という地名の由来です。横浜市が漁協組合長からの提言を受け入れ、正式な地名が「並木」と制定されました。 長浜千軒が水没した應長の大津波のとき、富岡の村は富岡八幡宮の山に守られて被害を受けなかったことから富岡八幡宮は波除(なみよけ)八幡とも呼ばれます。現在、並木の船溜まりに架かる富岡八幡宮寄りのコンクリートの橋は、波除橋と名付けられていいます。 金沢区富岡西在住の私は、金沢地先を埋め立てた横浜市と、団地を造成した横浜市住宅供給公社に感謝です。 江戸深川の富岡八幡宮 東京都江東区富岡 1-20-3 富岡八幡宮が應長の大津波から富岡の村を守ったことを知った徳川家康が江戸の埋立工事の無事を祈願して分霊を勧請し、家光の時代に深川の富岡八幡宮となりました。 深川の富岡八幡宮の由緒書では、横浜の富岡八幡宮からの分霊とはされていません。江戸深川の富岡八幡宮は何か変です。潔く「横浜の富岡八幡宮からの分霊」と公表されたら如何でしょうか。 外部リンク: 深川富岡八幡宮 この辺りの地の人 金沢区富岡付近の地の人(旧家)は、石崎さん、大胡さん、鹿島さん、斎田さん、野本さん、柳下さん等です。 富岡八幡宮社殿改修趣意書の鹿島さん(社殿改修発起人)は、常陸平氏の鹿島氏であると推測しています。根拠は、常陸平氏鹿島氏の本拠地である(であった)茨城県鹿島と横浜市金沢区は海で直結しているからです。『桓武平氏略系図(PDF)』参照 柳下さんは、下記、柳下豊後守のご子孫に違いありません。 柳下氏と富岡山長昌寺 横浜市金沢区富岡東3-23-21 『歴史年表(PDF)』天正2年(1574),文禄2年(1593)参照 天正2年(1574)、後北條氏(小田原北條氏)の家臣で富岡を領する柳下豊後守が、亡き妻(法名「桂窓長昌大姉」)の菩提を弔うため鎌倉明月院から僧を招いて長昌庵を創建。当時は臨済宗建長寺派富岡山長昌庵と称しました。 桓武平氏良文流柳下氏は酒匂川下流の柳下郷を領したことから柳下氏を名乗り、源頼朝、後北條氏に仕えました。 文禄2年(1593)閏9月、柳下豊後守は安房富津岬辺りから上げ潮に乗って来襲した里見水軍と戦い、槍で重傷を負いながらも穂先を握って離さず、里見軍は潮が変わり槍を残して撤退。里見軍は長昌庵の本尊阿弥陀如来立像を持ち去り、豊後守はそのときの槍傷で同月17日(1593/11/9)に没しました。 その後、里見軍と村民に不幸が続いたため里見氏は阿弥陀如来の祟りと解して如来像を柳下家に返却して来たと言われます。 戦いで豊後守が離さなかったという槍の穂先は、国道16号線沿いの大きな蕎麦屋さん『豊後』に現存するそうです。 2024年のコメント: 蕎麦屋さんは、なくなりました。経営者が変わったようです。 また、里見軍来襲のとき、女子供は現在の我が家付近まで逃げてきたとのこと。 長昌寺には、開基柳下豊後守が後北条氏の家臣ということから北條鱗(ほうじょううろこ)紋が多くの場所に配されています。鎌倉北條氏の北條鱗紋を後北條氏がそのまま使ったもので、三鱗(みつうろこ)より底辺が長い二等辺三角形であるのが特徴です。鎌倉北條氏の北條實時創建の稱名寺にも北條鱗紋がそこここに見られます。例えばこちら赤門の瓦とか。 ★長昌庵は、豊後守の子忠公が慶長15年(1610)に鎌倉明月院から仙渓和尚を招いて開山とし、長昌寺と改めました。本尊は釈迦如来で、現在は加えて楊柳観音が芋神様として祀られています。 ★主君の後北條氏が天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めで没落したため文禄3年(1594)に富岡の領主の座を降りた柳下氏ですが、ご後裔は現在も富岡とその周辺で広く活躍されています。 ★直木三十五の墓は最初慶珊寺に作られ、その後長昌寺に改葬されました。 豊嶋氏(豊島氏)と花翁山慶珊寺 横浜市金沢区富岡東4-1-8 『歴史年表(PDF)』文禄3年(1594) 慶長15年(1610)参照 天正18年(1590)の後北條氏滅亡により柳下豊後守に次いで文禄3年(1594)に富岡を領した豊嶋刑部少輔明重(としまぎょうぶしょうゆうあきしげ)は、先ず應長元年(1311)の大津波で富岡の村を守った富岡八幡宮の社殿を慶長15年(1610)に修復しました。家康が江戸の埋立工事に支障を来す高浪対策のため深川に富岡八幡宮の分霊を祀ったのは、この少し前のことです。 明重は次に寛永元年(1624)、父母の菩提を弔うため鎌倉から傳榮(伝栄)上人を招き花翁山慶珊寺を創建しました。父頼重の法名「花翁浄蓮禅定門」の「花翁」を山号とし、母の法名「瑚林慶珊禅定尼」の「慶珊」を寺号としたものです。 開基: 豊嶋(豊島)明重 / 開山: 傳榮(伝栄)上人 下総國の豊嶋氏がなぜ富岡へ? 秩父平氏(または摂津から来た清和源氏)で、下総國布川(茨城県北相馬郡利根町布川)を領した豊嶋頼重は、後北條氏の麾下に組み込まれ、豊臣秀吉による天正18年(1590)6月の小田原攻めの際、秀吉方の浅野長政に降伏した後に秀吉軍総大将石田三成の元で忍城(埼玉県行田市)を攻め果敢に戦いますが深傷を負い討死しました。布川城では降伏せず、忍城に籠城して討死とも言われますが、何れにしても布川の領地を失いました。布川城址(現 徳満寺)はこちら--> 豊臣秀吉の天下統一が成ると、秀吉は徳川家康を関東に移封します。江戸に入った家康は、在地旧勢力の懐柔策として名家の子孫を積極的に登庸しました。豊嶋明重には、その父頼重の功績を讃える意味も込めて富岡に1700石を与えました。 しかしその後、たいへん気の毒な事件によってお家断絶に至ります。 江戸城中刃傷事件 寛永5年8月10日(1628/9/7) 14:00頃、目付の豊嶋明重は義憤から江戸城中西の丸にて老中井上主計頭正就(いのうえ かずえのかみ まさなり)(横須賀城主6万石)を脇差しで刺殺し即刻自刃。後ろから羽交い締めして制止しようとしていた番士の青木小左衞門忠精は、明重の背中から突き出た脇差しの刃先で巻き添え死。明重の嫡子吉継(13歳)は連座して切腹。豊嶋明重家断絶。 事件の経緯 明重は井上正就の長子政利と大阪町奉行兼堺政所奉行 島田越前守直時女(むすめ)の仲人となり、婚約が整っていた。ところが春日局が上意と称して正就に、より家格の高い女との縁談を申し渡し、正就もこれを承諾したため島田の娘との縁談は破談となった。そこで、面目を失った明重が「武士に二言はない!」と正就を刺殺したもの。江戸城中での刃傷事件にもかかわらず豊嶋家が嫡子の切腹のみで済んだのは、酒井忠勝が「遺恨をそのままにしないのも武士道の一つである。これを厳罰とすれば武士の意地が廃れて百姓町人と同じことになる。」(現代ではこんなこと言えませんね)と意見したためであると。そのため、豊嶋明重家以外の親族は存続。責任を感じた島田直時は切腹。井上家はお咎めなし。 慶珊寺には、明重の姉が建立した豊嶋明重・吉継父子の二つの供養塔が哀しく並んでいます。対面する位置には豊嶋父子を見守るかのように慶珊寺開山傳栄(伝栄)の供養塔があります。 慶珊寺左側の坂を上ると元 直木三十五邸(現 橋本氏邸)があり、門の左脇に直木三十五の文学碑があります。「芸術は短く貧乏は長し」 慶珊寺山門右方の一角には、中華民国で国父と尊敬される孫文が亡命のために来日したときの日本上陸の地 記念碑があります。 『特集』>『中華民国』 |
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