『旧川合玉堂別邸の玄関』 横浜市金沢区富岡東1-19-22 2012年12月8日撮影 カメラ機種名: Canon EOS 5D Mark III, 撮影モード: 絞り優先AE, 絞り数値: 4.0, シャッター速度: 1/80, ISO感度:100, 測光方式: 評価測光, 露出補正: 0, 長秒時露光のノイズ低減: 自動, 高感度撮影時のノイズ低減: 弱め, 高輝度側・階調優先: しない, オートライティングオプティマイザ: 標準, 測距エリア選択モード: スポットAF, 周辺光量補正: する, 色収差補正: する レンズ: EF24-70mm f/2.8L USM, 焦点距離: 24.0mm, 画像サイズ: 3840x5760を1024x1536にリサイズ 玄関です。画室はこちら。紅葉はこちら。 柳下豊後守のご子孫、柳下様が案内をして下さいました。お寺は長昌寺とのこと。 別荘つながりで、野島の旧伊藤博文金沢別邸はこちら。 ★残念なことに、旧川合玉堂別邸は2013年10月16日の朝、火災により主屋が焼失してしまいました。 以下、横浜市教育委員会 文化財課/金沢区役所 区政推進課発行資料より引用・転記。 横浜市指定有形文化財 旧川合玉堂別邸(二松庵) 所在地 横浜市金沢区富岡東5-19-22 旧川合玉堂別邸は、日本画家川合玉堂が富岡に構えた別邸で、日本画家の制作場という特殊な別荘ですが、大正末期から昭和初期の富岡の別荘建築の雰囲気を良く遺す貴重な遺構として平成7年11月横浜市指定有形文化財に指定いたしました。 屋敷の中には2本の老松があったので、玉堂により「二松庵」と名付けられました。 玉堂は、東京牛込若宮町本邸に富岡の旧家斎田家の娘が行儀見習いに来ていたのが縁で、大正6年にこの地を訪れました。富岡は、金沢八景にも近く、景勝の地として、明治の元勲や豪商の別邸がありました。ここから2Kmほど離れた谷津町には鏑木清方も別荘「遊心庵」を構えており、両者は交流がありました。 この別邸は、いわゆる数寄屋造りで、画室としての機能を備えており、玉堂によって新築されたものです。関東大震災でも倒壊を免れているので、建築されたのは、大正6年~12年の間と考えられます。造園は地元の庭師「植周」の大胡隆治氏で、玉堂の細かい指示に従い、自然の趣をふんだんに取り入れています。大胡隆治氏は、「この庭は当時、真の山庭として有名なものであったが、小流れを雑木庭の山足と竹藪の間に引いて黒木の丸太小橋を架け、橋の下の見えぬ所に落差をつけ水音を聞かせた。」「水音が一色で味気ない。少なくとも水音を三色、できれば五色ぐらいにして音色を楽しむならばいっそう最高だといわれ、これは大いに勉強になった。」と述懐しています。現在の庭は、以後新しい木々の株も増え、2本の老松も倒れ、池やせせらぎもなくなっており、当時とは様子が異なっているとはいえ、今尚昔日の趣が良残されています。 屋敷は、約2000坪(8,011.95㎡(別資料より))、表門に腕木門があり、両袖に木賊付き建仁寺垣をめぐらせています。敷地は、南側低湿地の下段と、北側の山腹を切り開いた上段の二段に分かれていて、廻遊式庭園となっています。2本の老松があったところに四阿(あずまや)跡があり、ここから最も良い眺望が得られました。 母屋は茅葺の主要部と、瓦葺の下層部から成ります。玄関を入ると、左手に6畳の書生部屋、その奥が4畳の女中部屋を伴った厨房で、土間と板間から成っていました。土間に下りて、外へ出ると、井戸屋がありました。玄関の右手が、客の控室(4畳半)で、南側の広縁を通って茶室(8畳)に続き、その奥が、画室で、その東、南側に入側が廻ります。画室は10畳で、北側に袖壁付きの床、その東側に下地窓を開け、その下部を戸棚とし、西側にも浅い床を付け、軸物が掛けられる。画室の北側は寝室で、この主要部は全体的に数寄屋造りで纏められているが、形式にとらわれずに、制作の場としての機能を重視した工夫が見られます。茶室の北側には、廊下を挟んで4畳半、6畳の座敷が並び、その奥に便所、風呂場が張りだします。 川合玉堂 (1873-1957) 本名芳三郎は、明治6年11月愛知県葉栗郡外割田村 (現在:一宮市) に生まれた。明治20年、京都の雪舟以来の水墨画と土佐派とを折衷した望月派4代目望月玉泉に師事し、手本や粉本の模写、花鳥の写生に打ち込んだ。17歳の時玉堂を称し、第3回内国勧業博覧会に出品し入選した。後、幸野楳嶺に師事し、画塾・大成義会に入会した。この塾の先輩に菊地芳文・竹内棲鳳がいた。ここで丸山四条派の画法を教え込まれた。この時期の作品として八曲一隻の水墨画「老松図」がある。明治29年、上京して橋本雅邦の門下となり狩野派の画法の習得に励んだ。明治31年岡倉天心、横山大観らが日本美術院を創立した際、雅邦にに従いこれに加わる。明治40年、東京勧業博覧会に瀟洒な四条派の画法と狩野派の線とが渾然と溶け合って湿潤な日本風土と生活感とが醸し出されている「二日月」を出品。この作品により自己の画業の方向性を具現した。またこの年文部省美術展覧会(文展)審査員に任命される。大正4年東京美術学校日本画教授となる(昭和13年まで)。大正5年、第10会文展に大正時代の日本画を代表する六曲二双の色彩画「行く春」(国重要文化財)を出品。大正6年帝室技芸員となる。この頃、富岡を訪れた玉堂はその景観を気に入り、「二松庵」を建築し夏冬の画室とした。二松庵に訪れていたのは、昭和11年頃までと伝えられている。昭和15年文化勲章受章。昭和19年、現在の青梅市御岳に疎開をし、御岳での画生活に入った。昭和32年6月、御岳にて逝去した。 二松庵でかかれたのではないかとされる作品 「長閑」 大正6年の作 斎田家を訪れたときに庭で臼の目立てをしていた老人を描く。 「紅白梅」 大正8年の作 二松庵の庭の古木を描く。 「から臼」 昭和5年の作 斎田家を訪れたときに土間で作業する人々を描く。 二松庵を訪れ、画室から見える風景や周辺を散歩しながらスケッチした人物や景色が、作品の中に描かれている作品 「銃後の春」 昭和14年の作 「紀元節」 昭和19年の作 「出船」 昭和32年の作 |
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