『金澤貞顕 (金沢貞顕)(かねさは さだあき) 姓は北條』 |
父: 北條顕時 生誕: 弘安元年(1278) 没年: 正慶2年(南朝元弘3年)(1333)5月22日 場所: 新田義貞の鎌倉攻めで、東勝寺に於て北條一門と共に自決 享年: 56歳 墓所: 称名寺 金澤貞顕の墓 永仁2年(1294)、左衞門尉。 永仁4年(1296)、従五位下叙任。左近大夫将監。鎌倉幕府へ出仕。 正安2年(1300)、従五位上に昇叙。 乾元元年(1302)7月7日、六波羅探題南方。同年8月11日中務大輔。 嘉元2年(1304)、越後守。 徳治2年(1307)、正五位下に昇叙。 延慶元年(1308)11月、六波羅探題南方を辞任して鎌倉へ戻る。 延慶2年(1309)、寄合衆、引付頭人。 延慶3年(1310)、六波羅探題北方として再度上洛。 正和2年(1313)、武藏守に遷任。 正和3年(1314)11月、六波羅探題北方を辞任し鎌倉へ戻る。 正和4年(1315)7月11日、連署。 元亨2年(1322)、従四位上修理權大夫に昇進。 嘉暦元年3月16日(1326年4月19日)、嘉暦の政変の最中、15代執権に就任。 嘉暦元年3月26日(1326年4月29日)、暗殺を恐れて10日間で執権を辞任、出家。 好学の士で、清原直隆に儒学を学ぶ。 六波羅探題南方や北方として在京する環境を活用して多くの典籍の写本に努め、祖父北條實時創建の金澤文庫蔵書の充実に貢献。 子は貞将(さだゆき)、貞冬、貞匡、貞高、顕助、貞助、顕恵、道顕。 |
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