『富岡山長昌寺山門』 横浜市金沢区富岡東3-23-21 2012年3月25日撮影 カメラ機種名: Canon EOS 5D Mark II, 撮影モード: 絞り優先AE, 絞り数値: 2.8, シャッター速度: 1/400, ISO感度: 100, 測光方式: 中央部重点平均測光, 露出補正: 0, 長秒時露光のノイズ低減: 自動, 高感度撮影時のノイズ低減: 標準, 高輝度側・階調優先: しない, オートライティングオプティマイザ: 標準, 周辺光量補正: する レンズ: EF24-70mm f/2.8L USM, 焦点距離: 45.0mm, 画像サイズ: 5616x3744を1024x683にリサイズ 天正2年(1574)、後北條氏(小田原北條氏)の家臣で富岡を領する柳下豊後守が、亡き妻(法名「桂窓長昌大姉」)の菩提を弔うため鎌倉明月院から僧を招いて長昌庵を創建。当時は臨済宗建長寺派富岡山長昌庵と称しました。 桓武平氏良文流柳下氏は酒匂川下流の柳下郷を領したことから柳下氏を名乗り、源頼朝に臣従、そして鎌倉幕府滅亡後は後北條氏に仕えました。 文禄2年(1593)閏9月、柳下豊後守は、安房國富津岬から上げ潮に乗って来襲した里見水軍と戦い、槍で重傷を負いながらも穂先を握って離さず、里見軍は潮が変わり槍を残して撤退。里見軍は長昌庵の本尊阿弥陀如来立像を持ち去り、柳下豊後守はそのときの槍傷で9月17日に没しました。 その後、里見軍とその領地の村民に不幸が続いたため、里見氏は阿弥陀如来の祟りと解して如来像を柳下家に返却して来たそうです。 戦いで柳下豊後守が離さなかったという槍の穂先は国道16号線沿いの蕎麦屋『豊後』(廃業されたようです)に現存するそうです。また、里見軍来襲のとき、女子供は現在の我が家付近まで逃げてきたとのこと。我が家から長昌寺までは距離で1 km、当時の柳下氏の本拠までは800 mほどです。里見軍来襲の報に驚き、山道を走って逃げてきたのでしょう。 長昌寺には、開基柳下豊後守が後北条氏の家臣ということから北條鱗(ほうじょううろこ)紋(Note 1)が多くの場所に配されています。北條鱗は、三鱗(みつうろこ)より底辺が長い二等辺三角形であるのが特徴です。 ★長昌庵はその後、豊後守の男柳下忠公が慶長15年(1610)に鎌倉明月院から仙渓和尚を招いて開山とし、長昌寺と改めました。紋は北條鱗です。本尊は釈迦如来で、境内には近所から移されて来た「ほうそう(天然痘)除けの神様で知られる芋神様(楊柳観音)が祀られ、 毎年3月芋観音御開帳の行事があり、里芋の煮ころがしが参詣者にふるまわれます。(横浜金沢観光協会)」 また、直木三十五の墓(Note 2)があり、横浜金沢観光協会によれば「毎年命日の2月24日前後の休日に、 彼の代表作「南国太平記」にちなんだ「南国忌」の名称で供養と、 直木賞作家などの講演会が開催されている。」とのことです。 ★主君の後北條氏が天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めで滅亡したため文禄3年(1594)に富岡の領主の座を降りた柳下氏ですが、家は存続して現在も富岡とその周辺で広く活躍されています。 平成24年12月8日(土)、富岡駅近くの二松庵(旧川合玉堂別邸)が特別開園されたとき、柳下豊後守のご子孫柳下様が園内を案内して下さいました。名札を見て「豊後守のご子孫ですか?」と聞きましたところ。「そうです。」とのご返事でした。旧川合玉堂別邸はこちら。 Note 1: 北條鱗は元は鎌倉北條氏の家紋ですが、後北條氏(小田原北條氏)は、これを引き継いで使いました。もちろん、著作者である本家鎌倉北條氏には無届けでしょうね。 Note 2: 直木三十五の墓は最初慶珊寺に作られ、その後、ここ長昌寺に改葬されました。 |
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