豊嶋明重・吉継父子供養塔

『豊嶋(豊島)明重・吉継父子供養塔』 花翁山慶珊寺 横浜市金沢区富岡東4-1-8 Google マップ 慶珊寺
2009年12月13日撮影
カメラ機種名: Canon EOS 40D, 撮影モード: プログラムAE, 絞り数値: 6.7, シャッター速度: 1/180, 測光方式: 中央部重点平均測光, ISO感度: 400,
レンズ: EF16-35mm f/2.8L II USM, 焦点距離: 26.0mm(35mm換算=41.6mm), 画像サイズ: 2592x3888を683x1024にリサイズ


向かって右側の高い宝篋印塔が父豊嶋明重、左側の少し低い宝篋印塔が嫡子吉継の供養塔で、明重の姉が建立したそうです。供養塔の説明版はこちら
対面する位置に、豊嶋父子を見守るかのように慶珊寺開山傳榮(伝栄)大和尚の供養塔があります。

豊嶋氏と慶珊寺 『歴史年表(PDF)』文禄3年(1594),慶長15年(1610)参照
天正18年(1590)の後北條氏滅亡により柳下豊後守に次いで文禄3年(1594)に富岡を領した豊嶋刑部少輔明重(としまぎょうぶしょうゆうあきしげ)は、先ず應長元年(1311)の大津波から富岡の村を守った富岡八幡宮の社殿を慶長15年(1610)に修復しました。家康が江戸の埋立工事に支障を来す高浪対策のため深川に富岡八幡宮の分霊を祀ったのは、この少し前のことです。
明重は次に寛永元年(1624)、父母の菩提を弔うため鎌倉から傳榮(伝栄)上人を招き花翁山慶珊寺を創建しました。父頼重の法名「花翁浄蓮禅定門」の「花翁」を山号とし、母の法名「瑚林慶珊禅定尼」の「慶珊」を寺号としたものです。

下総國の豊嶋氏がなぜ富岡へ?
秩父平氏(または摂津から来た清和源氏)で、下総國布川(茨城県北相馬郡利根町布川)を領した豊嶋頼重は、後北條氏の麾下に組み込まれ、豊臣秀吉による天正18年(1590)6月の小田原攻めの際、秀吉方の浅野長政に降伏した後に秀吉軍総大将石田三成の元で忍城(埼玉県行田市)を攻め果敢に戦いますが深傷を負い討死しました。布川城では降伏せず、忍城に籠城して討死とも言われますが、何れにしても布川の領地を失いました。布川城址(現 徳満寺)はこちら-->Google マップ 布川城址(徳満寺)
豊臣秀吉の天下統一が成ると、秀吉は徳川家康を関東に移封します。江戸に入った家康は、在地旧勢力の懐柔策として名家の子孫を積極的に登庸しました。豊嶋明重には、その父頼重の功績を讃える意味も込めて富岡に1700石を与えました。
しかしその後、たいへん気の毒な事件によってお家断絶に至ります。

江戸城中刃傷事件
寛永5年8月10日(1628/9/7) 14:00頃、目付の豊嶋明重は義憤から江戸城中西の丸にて老中井上主計頭正就(いのうえかずえのかみまさなり)(横須賀城主6万石)を脇差しで刺殺し即刻自刃。後ろから羽交い締めして制止しようとしていた番士の青木小左衞門忠精は、明重の背中に突き出た脇差しの刃先で巻き添え死。明重の嫡子吉継(13歳)は連座して切腹。豊嶋明重家断絶。

事件の経緯
明重は井上正就の長子政利と大阪町奉行兼堺政所奉行 島田越前守直時女(むすめ)の仲人となり、婚約が整っていた。ところが春日局が上意と称して正就に、より家格の高い女との縁談を申し渡し、正就もこれを承諾したため島田の娘との縁談は破談となった。そこで、面目を失った明重が「武士に二言はない!」と正就を刺殺したもの。江戸城中での刃傷事件にもかかわらず豊嶋家が嫡子の切腹のみで済んだのは、酒井忠勝が「遺恨をそのままにしないのも武士道の一つである。これを厳罰とすれば武士の意地が廃れて百姓町人と同じことになる。」(現代ではこんなこと言えませんね)と意見したためであると。そのため豊嶋明重家以外の親族は存続。責任を感じた島田直時は切腹。井上家はお咎めなし。

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