『孫文先生上陸之地 記念碑と由緒書』 日本の元首相岸信介書 慶珊寺 横浜市金沢区富岡東4-1-8 on November 11, 2007 碑文 孫文先生上陸之地 岸信介書 写真にマウスカーソルを置くと、由緒書きに入れ替わります。 由緒 近代中国建設の父にして、三民主義・大アジア主義の提唱者である孫文先生は第二革命に際し、袁世凱に追われ中国を脱出、台湾経由日本に亡命を企図され、1913年(大正2年)8月17日横浜沖より小舟にて当地富岡海岸に上陸、東京に向かわれた事実は当時の神奈川県知事大島久満次より外務大臣牧野伸顕に宛てた報告文により明白となりました。孫文先生の富岡亡命上陸成功の陰に当時の日本当局者並びに日本人有志の援護があり、それが要因となって近代中国が生まれたことを思えば、富岡上陸の意義は誠に大きいと言わねばなりません。しかも今回右の史実と意義を顕彰のため建てられたこの史蹟碑が富岡住民たちの研究と日本人有志多数の協力によって竣功したことは、両国親善の歴史に大きな金字塔を成すものと言えましょう。 昭和59年(1984)8月17日 孫文先生上陸之地記念碑建立委員会 1911年の辛亥革命で清朝を打倒して民主化を実現し、中華民國(台湾)では「國父」の尊称を与えられ、大陸の中華人民共和國でも近代革命の最初の実行者として尊敬される孫文(1866年(慶応2)11月12日-1925年(大正14)3月12日)は、袁世凱政権を倒そうとする第二革命に失敗して亡命するために来日し、1913年(大正2)8月17日、この富岡海岸に上陸して東京へ向かいました。この記念碑は、慶珊寺山門に向かって右手にあります。 ちなみに、孫文の最初の来日は明治28年(1895)で、その後、十数回も来日しているそうです。 いまは慶珊寺から海まで約1kmありますので「上陸の地」と言われてもピンと来ませんが、しかし昭和42年(1967)に我が家が鶴見から富岡へ引っ越してきた頃はまだ、この場所のすぐ先が海でした。 横浜市の「金沢地先埋立事業」が昭和46年(1971)に始まり、昭和52年(1977)には慶珊寺先の埋立地に並木という地名が成立しました。 ★慶珊寺つながりの話題をもう一つ。 京浜急行の富岡駅から国道16号線を左折、現在の「富岡総合高校入口」交差点を右折した辺りに富岡海水浴場がありました。昭和30年代には鶴見から京浜急行でここへ海水浴に来た記憶があります。 ヘボン式ローマ字のヘボン(ヘップバーン)博士が健康増進のために海水浴を奨励し、博士の家族が慶珊寺に泊まっていたこともあって富岡が日本に於ける海水浴発祥の地となったのだそうです。 ★もう一つ、ついでの話題です。 私が鶴見に住んでいた子供の頃、京浜急行で海水浴に来た当時の富岡駅は「湘南富岡駅」という名称でした。最近まで湘南富岡だと思っていたのですが、昭和38年(1963)に「京浜富岡駅」に改称されていたそうです。さらに、昭和62年(1987)に現在の「京急富岡駅」となりました。 湘南富岡駅は昭和22年(1947)から昭和30年(1955)まで、駐留米軍の便宜を図るために現在の鳥見塚バス停付近に移設されていたそうです。元の場所に戻らなければ、我が家は駅から徒歩5分だったのにー! 米軍が駐留していた場所は、桜で有名な富岡総合公園を含む一帯で、終戦までは帝国海軍横濱海軍航空隊(通称: 濱空(浜空))(昭和11年(1936)10月1日開設)の基地でした。日本最初の飛行艇基地なのだそうです。 |
トップページ>『特集』>『中華民國』 『近況』 |