鎌倉英勝寺山門復興事業 (『鎌倉英勝寺』と一部重複) |
山門建立 英勝寺山門は、寛永19年(1642)5月に高松12万石初代藩主になった松平頼重が、英勝院の一周忌のために寛永20年(1643)8月に建立しました(寛永21年(1644)建立説あり)。 頼重は水戸初代藩主徳川頼房の長男ですが、2代藩主は3代将軍徳川家光の命で弟の光圀に決まったため、英勝院の計らいで高松初代藩主となりました。 頼房の養母であり英勝寺開基の英勝院が寛永19年8月23日(1642/9/17)に65歳で入寂すると、水戸家は一周忌までに大々的に英勝寺の伽藍を整備しました。なぜなら、英勝院は初代藩主徳川頼房の養母であるだけでなく、頼重、光圀ともに水に流されるところを救ってくれた命の恩人であるからです。 英勝院が寂したとき、高松で政務を執り始めて僅か3ヶ月の頼重は、すぐに鎌倉へ駆けつけることができず、翌寛永20年(1643)6月になって英勝寺を訪問、同年8月16日に山門を建立します。同月23日の一周忌法要には、父頼房、弟光圀と共に参列しました。このとき頼重は、1年前に駆けつけられなかった後悔と悲しみを詠った追善歌「去年(こぞ)のけふ ことしのけふをなぞらへて こひしき人にあふてやみなん」を奉納しています。命の恩人であるうえに、将来さえも心配してくれた祖母英勝院に対する篤い思いが伝わってきます。 幕府は英勝院が生前に希望していた勅額を英勝院入寂後に執奏しており、後水尾上皇の宸翰で「英勝寺」の御題著が勅使吉良義冬により届けられ、山門の扁額として掲げられます。 山門倒壊 江戸後期の嘉永4年(1851)頃には「水戸家御殿」と称されるほどの栄華を誇った英勝寺も、幕末になると水戸家の保護を失い、明治22年(1889)6月16日の横須賀線開通に伴って寺地と堂宇を失うなどの打撃を蒙って次第に衰えました。 山門建立から280年後の大正12年(1923)9月1日、そんな英勝寺に追い打ちをかけるように関東大震災が襲います。半壊の仏殿は旧材で再建され、鐘楼、祠堂、唐門も寛永期に建立された状態に復元されたものの、山門のみは全壊したため費用の面から再建を断念せざるを得ず、廃材として売りに出されました。 そのとき、結果的に不幸中の幸いとなることが起きます。山門の全ての部材が篤志家(Note 1)に買い取られて英勝寺から1Kmほど離れた葛西ヶ谷(鎌倉市小町3丁目)に再建されました。廃棄されずに済んだ山門ですが、寺から一人離れて移築されていた80年近くの間は寂しい思いをしたことでしょう。 Note 1: 篤志家とは、間島弟彦(まじま おとひこ)氏です。この人がいなければ、山門は灰になっていたそうです。 赤松氏庶流間島氏の後裔とされ、明治4年(1871)7月7日、尾張藩士間島冬道の七男として生まれる。東京英和学校(現青山学院)に学び米国に留学。帰国して第十五銀行に入社。三井銀行に移り横浜・大阪支店長を経て大正7年取締役、同12年退職。鎌倉材木座に居住。葛西ヶ谷の東勝寺跡に別荘として白水荘を建て、その後、材木座からここへ住居を移す。 同12年9月1日の関東大震災で山門以外も甚大な被害を受けた英勝寺は山門のみ再建を断念。その部材は薪として3円50銭で売りに出された。その話を植木職人から聞いた間島氏は、部材を全部買い上げたうえ2千円の巨費を投じ、2年の歳月をかけて大正14年(1925)自邸白水荘敷地内に再建する。 昭和3年(1928)没。墓は青山霊園。間島氏夫妻は英勝寺山門の保護のみならず震災後の鎌倉の復興にも、さらに母校の現青山学院にも私費を投じて多大な貢献を成す。御成小学校正門脇に「間島君旌徳碑」あり。 昭和24年(1949)、間島邸は似鳥(にたどり)氏の所有になるが英勝寺山門は保護され、結果として良好に保存された。 山門復興 山門は、移築されていた間に所有者が変わりますが幸いなことに良好な保存状態で、平成13年(2001)2月、地権者である寶戒寺の好意で部材が英勝寺へ戻りました。これを契機に復興再建活動が始動しますが、再建が成るまでには10年の歳月を要します。 仏殿、祠堂、唐門、鐘楼は既に神奈川県から重要文化財に指定(Note 2)されており、山門も、再建されることを前提に平成15年(2003)2月6日、部材の状態で県の重要文化財に指定されて復興再建の機運が盛り上がりました。 しかし、再建費用は¥1億以上と見積もられ、山門復興事業事務局、復興基金協力呼び掛け人等関係各位が様々な手段で資金調達に尽力されます。しかし、神奈川県、鎌倉市の支援を受けつつも容易く調達できる額ではありません。部材は平成19年(2007)まで、山門の礎石上に設置されたプレハブの中で再建を待ち続けます。 それを知った私も平成19年(2007)2月3日、¥1億と比較すれば微微たるものながら復興基金に協力させていただきました。私の場合は「江戸時代中期の先祖(分家の東條氏)や私の高祖母きむの祖父三宅八三郎富盛が水戸藩士として英勝寺に出張した際にお世話になったから」と、「伽藍の彫刻のどれかは江戸時代前期の直系の先祖が細工人として手掛けた可能性があるから」が奉賛の動機です。 その後、東條氏が迎えた養子の実家川上氏も英勝寺に出張されたことが判明しました。我が家は英勝寺との関係が深いようです。 山門略歴 ●寛永20年(1643)8月16日(1643/9/28)、松平頼重により建立(寛永21年(1644)建立説あり)。 ●大正12年(1923)9月1日、関東大震災で全壊。同年、間島弟彦氏が全部材を購入。 ●大正14年(1925)、間島弟彦氏、自邸に移築。 ●昭和24年(1949)、山門を含む間島邸が似鳥氏所有に。 ●昭和38年(1963)10月27日、仏殿、祠堂等修復されるも山門は含まれず。 ●平成13年(2001)2月26日、旧似鳥邸にて山門移築法要。山門部材が英勝寺へ戻り、復興計画始動。 同年9月31日、山門復興事業事務局発足。様々な活動を通じて広報に務め資金調達に尽力。 ●平成15年(2003)2月6日、部材が神奈川県重要文化財に指定。 ●平成19年(2007)7月1日、復元工事発注。工程表はこちら。工事開始後も復興事務局の活動は継続。 ●平成21年(2009)8月24日、立柱式。 同年12月6日、上棟式。 ●平成23年(2011)3月、竣工。 同年5月1日までの山門復興基金への寄付者1449名。(金額は平成16年(2004)10月31日までで1800万円。) 同年5月16日、落慶式。 同月17~22日、落慶記念特別拝観。 Note 2: 平成25年(2013)5月17日、文化審議会が英勝寺の仏殿(扁額を含む)・山門(扁額を含む)・鐘楼・祠堂(墓塔を含む)・唐門(祠堂門)を国重文に指定するよう文科相に答申しました。それを受けた同年8月7日付官報告示はこちら。 参考文献: 『英勝寺山門復興落慶記念誌』 |
『山門正面』 平成23年(2011)10月1日撮影(5月21日撮影の写真と入れ替えました。) 正面、すなわち南面です。 |
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『山門扁額』 平成23年(2011)5月21日撮影 「英勝寺」の文字は後水尾上皇の宸翰とされ、寛永20年4月10日(1643/5/27)の裏書きがあるそうです。 仏殿の扁額「寶珠殿」はこちら。 |
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『鐘楼と山門』 平成23年(2011)5月21日撮影 鐘楼も山門も神奈川県指定重要文化財です。 山門を南東方向から見ています。 |
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『南西方向から望む山門』 平成23年(2011)5月21日撮影 太子堂の下、三霊社権現の方向から見ています。 |
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『燈籠と山門北面』 平成23年(2011)5月21日撮影 仏殿入口から見ているので山門の後側です。 石造の燈籠一対は、寛永21年(1644)の建立です。 |
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山門蟇股彫刻 | 『山門蟇股の彫刻』 平成23年(2011)5月21日撮影 山門裳階の蟇股には精巧な彫刻が施されています。東西南北に各二つ、合計八つあります。 仏殿蟇股の十二支彫刻はこちら。こちらは東西南北に各三つ、合計12です。 |
★この下は、平成19年の山門復興工事着工から平成23年の竣工に至るまでの記録です。 | |
『山門復興基金受付中の看板』 平成19年(2007)2月3日撮影 山門復興事業の基金を募集しています。 |
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『山門の部材を保管しているプレハブ』 平成19年(2007)2月10日撮影 山門の礎石上に設置されたプレハブの中で、部材が再組立を待ち続けています。 |
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『プレハブ後面に設置された説明板』 平成19年(2007)2月10日撮影 関東大震災で倒壊し、80年ぶりに里帰りした山門の部材がプレハブの中で復興を待っている旨の説明です。 |
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『復興工事許可標』 平成20年(2008)3月15日撮影 平成19年(2007)7月2日に開始、平成23年(2011)3月31日までに竣工します。 工程表はこちら。 |
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『プレハブが撤去された山門礎石』 平成20年(2008)4月5日の状況 部材が収納されていたプレハブが撤去されました。 |
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『山門礎石に貼付されたマーカ』 平成20年(2008)4月5日の状況 石の一個一個に識別用のマーカが貼付されています。 |
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『完成間近の足場』 平成21年(2009)7月5日の状況 仏殿正面から見ており、全景が収まらないほど大きな足場です。足場は組立完了が間近のようです。 |
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『仏殿から望む完成した足場』 平成21年(2009)7月26日の状況 仏殿正面から見ています。足場の屋根が完成しネットがかけられて、部材の組立が始まりました。 |
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『唐門から望む完成した足場』 平成21年(2009)7月26日の状況 唐門の脇から見ています。 |
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『山門組立開始』 平成21年(2009)7月26日の状況 足場の内部では部材の組立が始まりました。初回の組立は、もちろん寛永20年(1643)8月に建立されたとき、二度目は関東大震災で倒壊し小町葛西ガ谷へ移築されたとき、そして今回が三度目です。 |
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『組立が進む山門下層部』 平成21年(2009)8月29日の状況 下層の柱が立ち上がり、壁材も組立が進んでいます。 既に部材があるのに、なぜ4年間もの工期が必要なのか疑問でしたが、理由が分かりました。 |
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『山門脚部完成』 平成21年(2009)10月17日の状況 新材で作られた部材が使われている様子がわかります。新材には、旧材の部分との違和感をなくすため、「古色塗り」という作業が行なわれるそうです。 |
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『山門の組立はほぼ完了 その1』 平成22年(2010)9月25日の状況 工程表によれば、仕上げの段階です。 工程表はこちら。 |
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『山門の組立はほぼ完了 その2』 平成22年(2010)9月25日の状況 庇(ひさし)が見えます。 |
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『鬼板の三葉葵紋』 平成23年(2011)1月30日の状況 ここにも三葉葵紋が配されています。まだ足場があるため、全容が見えません。 工程表はこちら。 |
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『全容を現わした山門』 平成23年(2011)4月17日の状況 足場が撤去されて、いよいよ全容を現わしました。 まだ土木工事が行なわれているため正面側には回ることができません。 |
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