『稱名寺開基 北條實時(北条実時)の墓』 2009年3月15日撮影 カメラ機種名: Canon EOS 40D, 撮影モード: 絞り優先AE, 絞り数値: 11.0, シャッター速度: 1/180, 測光方式: 中央部重点平均測光, ISO感度: 400, ホワイトバランス: オート レンズ: EF16-35mm f/2.8L II USM, 焦点距離: 31.0mm(35mm換算=49.6mm), 画像サイズ: 3888x2592を1024x683にリサイズ 説明板より引用 [金沢(かねさわ)北条一門の墓] 北条実時(ほうじょうさねとき)の墓 北条実時(1224~1276)は、鎌倉幕府の第二代執権であった義時(よしとき)の孫で、貞応(じょうおう)三年に実泰(さねやす)の子として生まれました。 実時は引付衆(ひきつけしゅう)や評定衆(ひょうじょうしゅう)など幕府の要職を歴任し、文永(ぶんえい)三年(1275)には越訴(おっそ)奉行などをつとめています。 政治面で活躍する一方、広範な分野の学問にも力をつくし、文武ともにすぐれた知識人で、現在の称名寺がある地に別業(べつぎょう)を開き、金沢文庫の礎を築きました。 墓地内中央の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、実時の墓と伝えられ、さらに左右の五輪塔(ごりんとう)は一門の墓といわれています。 また、江戸時代この墓地を修理したときは、素焼きの壺の類が出土したといいます。 平成7年3月31日 横浜市教育委員会 写真にマウスカーソルを置くと、實時と金澤北條一門の墓所全景に入れ替わります。 墓所中央に位置する實時の宝篋印塔は、画面中央の木に隠れています。 カメラ機種名: Canon EOS 40D, 撮影モード: 絞り優先AE, 絞り数値: 11.0, シャッター速度: 1/60, 測光方式: 中央部重点平均測光, ISO感度: 400, ホワイトバランス: オート レンズ: EF16-35mm f/2.8L II USM, 焦点距離: 16.0mm(35mm換算=25.6mm), 画像サイズ: 3888x2592を1024x683にリサイズ 正嘉3年(1259)に稱名寺(称名寺)を開き金澤文庫を創建したのが北條實時(北条実時)です。稱名寺と金澤文庫は、顕時、貞顕、貞将(さだゆき)と受け継がれ整備されます。 金澤貞顕は、正慶2年(南朝元弘3年)(1333)5月23日の新田義貞による鎌倉攻めの際、鎌倉東勝寺で北條一門と共に自決しました。これにて鎌倉幕府滅亡。 この合戦で貞顕の子、貞将は東勝寺から敵陣へ打って出て壮絶な戦死を遂げたとのこと。 『歴史年表』(PDF)をご参照下さい。 北條實時の子、顕時の墓はこちら。北條實時の孫、貞顕の墓はこちら。 この墓所は、「称名寺市民の森」ハイキングコースの途中にあります。 金堂右側の釈迦堂前を通過し野原に出たら左折して山へ上がり、尾根道のハイキングコースを横切って階段をさらに上がった突き当たりの場所です。 仁王門右手奥からハイキングコースに入った場合は日向山通りを進み、日向山デッキを過ぎた右上です。 實時の墓からハイキングコースをそのまま進めば、稲荷山休憩所を経て最高峰の八角堂広場に着きます。標高76mの八角堂広場からは、称名寺の金堂、釈迦堂、鐘楼、苑池の一部、そして平橋が眼下に見えます。さらに、標高57mの野島、八景島、東京湾、房総半島、横浜みなとみらい地区、そして富士山を望むこともできます。 稲荷山休憩所の先は崖崩れで一時通行止めでしたが、鉄の渡り板で補修されて通行可能になりました。 |
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