鎌倉鶴岡八幡宮 |
〒248-8588 神奈川県鎌倉市雪の下2-1-31 TEL: 0467-22-0315 由比若宮 前九年の役で陸奥の安倍氏を討ち康平6年(1063)に鎌倉へ戻った源頼義は、同年8月、由比郷(材木座)に京都石清水八幡宮から八幡大神を勧請して由比若宮(ゆいのわかみや)を造営します。これは現在の元八幡宮で、鶴岡八幡宮寺の前身です。 これより前、頼義の父で河内源氏の源頼信は平忠常の乱平定に於て平直方と親しくなり、頼義の騎射の腕に感心した直方が娘を頼義に嫁がせました。さらに直方は、女婿となった頼義に鎌倉の所領を譲ったことから、鎌倉が源氏の東国の本拠地となりました。 頼義の男(むすこ)八幡太郎義家は永保元年(1081)2月、由比若宮を修復しています。 頼朝による遷座 治承4年(1180)8月18日未明に挙兵したものの石橋山で平家方に大敗した源頼朝は、辛くも房総半島へ逃れて兵を増し、10月7日鎌倉に入るやいなや由比若宮を小林郷北山の現在地に遷座し10月16日には鶴岡八幡宮寺仮堂の落慶式を行ないました。 頼朝は、その日のうちに平家の頼朝討伐軍迎撃のため駿河國へ進発。富士川の合戦に圧勝します。「平家の大軍は飛び立つ鳥の羽音に驚いて我先に逃げ去った」のだそうです。 鶴岡八幡宮寺を開くことは戦勝祈願が目的だったことが分かります。 養和元年(1181)7月20日に棟上式を行なったとき、浅草から呼んだ宮大工のため、異母弟の源義経に馬を引かせたという話は有名です。 建久2年(1191)3月に社殿のほとんどを焼失しますが、頼朝は直ちに再建を開始。このとき、旧社殿裏手の大臣山を開削し、現在のような上下両社の形式になりました。 再建と増築は同年11月21日に完了し、このとき公式に京の石清水八幡宮から御神霊を迎えたので、鶴岡八幡宮寺創建は、この日とされています。ちなみに現存する社殿は江戸期に造営されたものです。 建保7年(1219)1月27日の午後6時過ぎ、鎌倉3代将軍源実朝が、銀杏の木の下に潜んでいた鶴岡八幡宮寺別当で甥の公暁に暗殺された話もまた有名です。黒幕は、事件直前に体調不良を理由に姿を消した北條義時でしょうか? それとも三浦義村でしょうか? 明治政府の神仏判然令 元の名を『鶴岡八幡宮寺』というとおり神仏混淆でしたが、明治維新に伴う神仏判然令に基づいた神仏分離政策に従い『寺』の一文字を削除して『鶴岡八幡宮』となります。 『寺』に関係する建造物を取り壊したり、収納されていた寺宝を浅草寺へ移動せざるを得なかったり、それらに伴う人事面での被害も甚大だったとのことです。 |
『冬の段葛』 寿永元年(1182)、源頼朝が妻北條政子の安産を祈念して若宮大路に設けた参道です。 頼朝が自ら工事の監督をしたそうです。 |
|
『春の段葛』 花のトンネルがどこまでも続きます。 |
|
『三ノ鳥居』 | |
『本宮と舞殿』 上が本宮、手前の下側が舞殿です。 |
|
『源氏池のアオサギ』 アオサギも花見でしょうか? |
|
『鶴岡八幡宮 境内の桜とハクモクレン』 まだ寒いのに桜も咲き始めました。 ハクモクレンとコブシの見分け方はこちら。 |
外部リンク: 鎌倉鶴岡八幡宮 |
トップページへ |