先祖調査メモ

1.【まえがき】

先祖調査に関しまして、このサイトの複数の箇所で「私は幸運だった」と述べており、一定の成果を公表することができましたので、調査がいかにも楽にトントン拍子に進展したかのような印象を与えるかもしれませんが、決してそんなことはありません。
平成8年(1996)7月に母が亡くなったことが切っ掛け(実父も義父も婿殿のせいか太田家の先祖に興味なし)で、突然、先祖に思慕の情が湧いたけれども、あったはずの系図が見あたらない。
大正9年(1920)に水戸から横濱へ私の曾祖母・祖父・大叔父が引っ越すときに大小と弓を除く武具や古文書類が廃棄されてしまったようだ。
そして昭和41年(1966)に祖父が亡くなり昭和42年(1967)に横浜市鶴見区から金沢区へ引っ越すときには大叔父により大小の大が売却され、鶴見にはあった弓と系図が廃棄されてしまったようだ。現存するのは大小の小、大の白鞘と、匕首(あいくち)(PDF)、そして位牌だけ(
Note 1-0)。しかし、その位牌の旧字体が読めない。
そもそも、世の中にどんな史・資料や文献が存在するのかという知識が皆無。誰に何を聞いたらいいかも分からない。居ても立ってもいられないが、どこへ行ったらいいかも分からない。先祖調査の本を買ったら「お寺の過去帳を調べろ」と書いてあるが、お寺が分からないという有様でした。

そんな私の無我夢中、右往左往の行動を振り返り、努めて醒めた目で見直したのがこの『先祖調査メモ』、そしてこのサイトです。
このサイトが先祖調査を始めようとされている方のご参考になれば幸甚ですが、しかし、環境が人それぞれで異なりますから単なる一例と見ていただいた方がいいかもしれません。
しかしまた、
除籍謄本の取得やご高齢の方への聞き取り調査のように直ちに行なうべきことと、急がなくてもいいことを見極める参考にはなると思います。

私のケースのように江戸期のご先祖がどちらかの藩士であった場合は、出仕した時期までは遡れるのではないでしょうか。
なぜなら、家に系図がなくても藩が管理していた藩士の系図集のようなものが公的機関に保存されている可能性があるからです。水戸藩士の場合は、『水府系纂(すいふけいさん)』という、藩士の出自と出仕後の経歴を綴った史料、すなわち系図集が現存します。
系図集でなく家臣団名簿しかない場合は、ある時期に藩士であったという事実と職掌しか確認できないかもしれません。しかし、それ以外の、例えば分限帳(水戸藩では規式帳)にご先祖が登場する可能性もありますので、先ず藩の史料を調査してください。

振り返りますと調査実績は坂道を登るが如く積み上げられたのではなく、階段状に進展したという印象です。長い踊り場の先に飛び上がるような一歩がやって来ることが何回もありました。飛び上がると、その先が一気に見渡せるように感じました。

調査は、何か一つを追い続けてしまうと時間のロスが大きいですから複数のターゲットを定めて並行に進めた方がベターです。効率よく進めないと、調査者の寿命が尽きてしまいます。
私は、戦国・織豊時代から平安時代へ遡り、江戸時代へ下って鎌倉時代へ遡り、南北朝内乱期、再度江戸時代から明治、そして現代という具合に試行錯誤している最中に、太田家の婿殿であった実父の黒政泰治(
Note 1-1)が亡くなったという知らせが何故か妹を経由して横浜市鶴見警察署から届きました。もし現代の調査を並行して進めていたなら、母と離婚してから50年間も会っていなかった実父が生きているうちに再開できたのにと、悔やまれます。男性は女性より寿命が短いので、母より前に亡くなったはずと勝手に決め込んでいました。

とりわけ、「家」を背負って行かねばならない立場である男性は、ある程度の年齢に達したり、ご父母が亡くなったりなどを契機としてご自身や配偶者のご先祖に興味を覚える方が多いようです。
たぶん、ご先祖に興味を感じられた時点では、ほとんどの方が私のような先祖調査の初心者ではないでしょうか?
どうぞ、熱意をもって調査を推進されてください。努力をしなくても熱意は自然に沸いてきます。そして、調査を継続してください。決して無駄にはなりません。私でさえ実績が得られたのですから動けば必ず成果が得られます。

なお、この『先祖調査メモ』を含めてサイト全体も追記や修正を重ねております。順序が前後したり、重複したり等があるかもしれませんがご容赦下さい。

Note 1-0: 大東亜戦争(太平洋戦争)時の機関砲弾もありました。
Note 1-1:
News #1
平成19年(2007)11月20日、秋田県横手市の黒政様から e-mail を賜わりました。
私の実父は東京市本所區生まれですが、その父(私の祖父)の戸籍は秋田縣平鹿郡沼舘町(現在は秋田県横手市雄物川町沼舘)です。
ご連絡をくださった黒政様も同地区ご出身とのことで、沼舘の一帯に黒政姓が集中しているそうですから、遠くても江戸後期まで遡れば必ず私の系統との接点が発見できて共通の祖に行き着くと思います。
このようなご連絡をいただけるのはたいへん有り難いことです。このサイトが縁(えにし)の糸になりました。
実父の系統についてはリタイヤ後に調査を活発化する予定でおりまして、まだ調査が進んでいませんが、現時点で取得可能な全ての謄本類は、既に雄物川町役場からご送付いただきました。
2010年8月7日のコメント: 横手市の黒政様と私とは、江戸後期で共通の祖に行き着くことが判明しました。
News #2 平成22年(2010)6月16日、横浜市鶴見区在住で私の実父黒政泰治妹のご子息(すなわち従兄弟)から e-mail を賜わりました。
たいへん嬉しいですし、「リタイヤ後に調査を活発化」なんて悠長なことを言っていられない状況になってきました。

先祖調査メモ 【目次】1.まえがき2.調査開始の動機3.調査手順4.三つの幸運5.系図6.古文書の複写


2.【調査開始の動機】
じつは、私は40歳代半ば、すなわち母が亡くなるまでは先祖に全く興味がなく、日本史も世界史も、とにかく歴史の勉強は嫌いでした。「過去を知って何になる。先ず目先の問題を解決すること、次に将来を考えるべきだ。」という態度です。自分自身や、妻、子供達に降りかかる火の粉を払うので精一杯の毎日でした。

ところが、母が亡くなった直後に「家系図が見当たらない。いま調査しておかなければ時代を経るとますます分からなってしまう」という焦りを感じて先祖調査を開始し、普段は消極的な性格の私には考えられないくらい積極的・精力的に行動しました。
調査の後押しをしてくれる大勢の先祖を常に感じました。その力が強すぎて突き動かされているように思ったこともあります。
祖霊信仰を意識しなくても先祖を感じるというのは事実で、不思議な感覚です。強い思い入れによる自己暗示の産物なのかもしれません。

先祖はどういう環境に生き、何に感動し、どういう立場でどんな仕事をしていたのか? 何が原因で亡くなったのか? それらを知るには時代背景、すなわち日本史の知識が必要です。
日本史で「寄進型(寄進地系)荘園(庄園)」というのを教わりました。先祖調査がある程度進んで常陸國信太郡東條の地(茨城県稲敷市および龍ヶ崎市の一部)を熊野新宮速玉社へ寄進して立荘したのが私の先祖本人だと知ったとき、「高校生の頃にそれを知っていれば日本史は満点を取れたかもしれないなぁ?」と感じました。興味のある教科は成績が上がるからです。
さらに、日本史には世界史も重ね合わせて検討しなければなりません。

当初、自分の先祖のみにしか感じなかった興味が周囲にどんどん広がっています。今では、「人は皆、それぞれの先祖が築き残した基盤の上で生きている」ことを実感できるようになりました。

さらに、「歴史に学ぶ」、「歴史は繰り返される」と言われます。必ずしも同じ条件で繰り返すわけではありませんが、その知識は目前の困難を乗り切るヒントを与えてくれます。そして、場合によっては将来の予測も可能にしてくれます。

先祖調査メモ 【目次】1.まえがき2.調査開始の動機3.調査手順4.三つの幸運5.系図6.古文書の複写


3.【調査手順】
1) まず、母の葬儀に参列してくれた親戚から聞き取り調査。
「家に伝わる口碑は確かなことが多い」と言われます。当家の場合もいくつかが当てはまりました。例えば「先祖は太田城主だったが弱かったので家来に乗っ取られた」というのがあって、つぎのように修正すれば史実と符合します。
「東條太田城主だったが南北朝内乱期に同族(常陸平氏という意味で)の鹿島氏、烟田氏、宮崎(みやがさき)氏らに攻められて落城。鹿島氏は東條氏に奪還されないよう若党を東條太田城に差し置いた。烟田氏に横領されていた時期もある。(すなわち、同族に乗っ取られた。)」
当初は、「太田城」を常陸太田市の「太田城(舞鶴城)」(佐竹氏居城)であると誤認して平成9年(1997)に常陸太田へ行ってしまいました。叔母も常陸太田の太田城だと思っていたそうです。
元禄時代には水戸2代藩主徳川光圀の隠居先である西山荘の近傍に住んでいましたので、我が家の名字の地であると誤認するに充分過ぎる条件が揃っています。
結果的に、常陸太田は名字の地ではなく故地の一つであり、名字の地は茨城県稲敷市(調査時は稲敷郡新利根町)下太田・太田一帯であることが確認できたのは平成10年(1998)で、その後は裏付けを取る作業に邁進しました。

2) 役所で「戸籍謄本」、「除籍謄本」、「改正原戸籍(カイセイゲンコセキ(通称: ハラコセキ))謄本」等を入手する。
先ず、地元の役所で取得できる謄本類を入手してください。それらを先祖の地の役所に持参して相談し、除籍謄本を取得します。取得する理由は、「先祖調査」よりも「先祖供養のため」が役所の方に与える印象が良いそうです。
除籍謄本には除籍された人の親も載っています。私の場合は天保生まれの高祖父母まで分かりました。
★戸籍謄本からは、死亡、結婚、離婚等によって除籍されます。そして、誰もいなくなった戸籍は除籍簿に移動されます。先祖調査に必要な、その除籍簿の法的な保存期間は80年なので、取得を急いで下さい。()
80年を過ぎたか否かの管理や廃棄作業には手間と経費がかかりますので80年経てばすぐに廃棄することはないと思いますが、市町村合併の機会に整理されてしまう恐れがあります。
注: 平成22年11月30日に戸籍法施行規則が改正されて除籍簿の保存期間が150年になりました。それでも急ぎましょう。

戸籍法施行規則第1章第5条4項(総務省の当該ページへの外部リンク)

謄本の入手は、役所・役場へ行って相談するのがベストですが郵送で請求することもできます。
水戸市役所では「先祖調査のため、全部の謄本を取得したい」とお願いしたところ、相当の時間をかけて関係者全員の除籍謄本や改姓原戸籍等、合計10通近くを探し出して下さいました。横浜市金沢区役所で取得した私自身の戸籍謄本や、親の除籍謄本を持参したので信用して下さったのでしょうが、たいへん感謝しています。
費用は戸籍謄本が450円、除籍謄本と改製原戸籍が750円で、最近は役所に設置された自動販売機で当該金額の証紙を購入するようになっています。

郵送による謄本交付の申請:
役所に行くのがベストとは言っても遠隔地だったり、勤め人の場合は簡単には行けませんから、郵送でも取り寄せることができます。
この場合の難点は、どういう謄本が存在するのか分からないので謄本類請求に必要な費用(下記④の定額小為替)も、郵送料も分からないということです。電話で聞いて教えてくれる場合もありますが、東京都大田区役所は「電話での問合せはお断わり」でした。その場合は、取り敢えず除籍謄本1通分の費用を想定して下記書類等を送ります。不足の場合は電話がかかってきますので、不足分を追加して送ることになります。
申請に必要な下記書類等を封筒に入れて、役所・役場のサイトに掲載されている宛先に発送します。
①役所・役場のサイトからダウンロードした郵送用謄本類申請書フォームに必要事項を記入。
②申請者本人の身元証明書コピー(運転免許証・パスポート等)。
③申請者本人と取り寄せたい人との関係を証明する戸籍謄本等。
④郵便局で購入した定額小為替。戸籍謄本は450円、除籍謄本と改製原戸籍は750円。
※定額小為替は1枚当たり100円の手数料が必要です。例えば750円の定額小為替が2枚必要なら1,700円です。
⑤自分の宛名を記入した返送用封筒。
※私は定形外角2の封筒に自分の宛名をプリントしたラベルを貼り、封筒を半分に折って同封しています。
※想定する郵送料より、かなり多めの切手を同封してください。役所のサイトには切手を「貼付(封筒に貼り付ける)」するように記されていますが、私の場合は50円切手を5枚くらいクリップでとめて同封しています。役所からの返送時、必要枚数を貼って残りは同封してくれます。

3) 位牌の記述を書き写す。
我が家には慶安年間以降の位牌がありますので、ワープロで出る限りの旧字体でリストを作りました。(旧字体に対応する新字体が分かる方なら、わざわざ旧字体をワープロで引っ張り出す必要はないかもしれません。)
戒名のほかに俗名、没年月日、没年齢、続柄が書いてある人、ない人、いろいろですが、とにかく記載されている全ての内容をノートに転記しました。そして、MS-Excelで時系列に整理しました。
なお、読めない文字は画像と考えて忠実に紙に写し取り、お年寄りに尋ねると教えていただけることがあります。

4) 上記 3) のリストをプリントアウトして先祖の地のお寺へ行き、過去帳を調査させていただく。
当家は時宗でした(現在は臨機応変です)。水戸市史編纂室(当時)の宮川修先生から「水戸の時宗のお寺は神應寺(神応寺)のみである」とご教示くださいましたので、神應寺に電話して訪問させていただいたところ、親切な副住職さんで「調べてみましょう」というお言葉を賜わりました。
そこで、上記 3) の位牌リスト、『太田氏系図のオリジナル版』、『太田氏概説』、『歴史年表のオリジナル版』等をお渡しした結果、なんと2日間で22名も見つけて下さり、過去帳当該ページのコピーを郵送して下さったのです。
もし過去帳をその場で見せて下さったとしても、旧字体を見慣れていない者には膨大な量の過去帳から22名を見つけるのは至難の業です。私の場合は1ヶ月かけても無理かもしれません。
過去帳の記載事項は、当然ながら位牌とダブっている内容がほとんどです。しかし、新しい情報も得られました。例えば位牌にない俗名、享年、当時の住所等、そして誰の子供だとか誰の叔母だとか。
お寺の過去帳は檀家別に作られているわけではなく、お寺にとっての時系列で記録されるため、同一ページに複数の檀家の情報が記載されています。そのせいか、過去帳は檀家以外には開示しないお寺もあるようです。また、いきなり訪ねて行って「過去帳を見せて欲しい」では、先方も対応しにくいと思います。
私は、お寺が神應寺であることが分かってから1年以上も訪問を躊躇していました。水戸はB-29の空襲を受けたので過去帳は残っていないだろうと勝手に判断したことと、断わられたらどうしよう、断わられないためにはどう切り出したらいいのか・・・などと考えていました。
意を決して訪問したところ、副住職さんは「寺は焼けたが過去帳は残った」と言われました。これは、副住職の先代が空襲で自らの命が危険に晒されているにもかかわらず、寺宝と共に過去帳を守ってくださったことを意味します。親切な副住職さんに出会えたことと、過去帳が守られていたことは私の幸運の一つです。

5) 関係しそうな県市町村史等を購入する。
書籍名が明確でしたら近所の書店で取り寄せてくれますし、送金して購入することができますが、できれば訪問して先祖の調査中であることを告げて相談するのがベストです。1冊が数千円しますので、閲覧室で内容を確認してから購入しました。
まず『水戸市史』、『茨城県史』、次に、平國香の子孫の東條氏は稲敷市下太田,太田が本拠地だったので『新利根村史』、そして領地全域に広げて『龍ヶ崎市史』、『牛久市史』、『江戸崎町史』、『東町史』、さらに、戦ったり婚姻関係を結んだであろう地域に広げて『伊奈町史』、『鉾田町史』等を購入しました。
『鉾田町史』を購入する際に編纂室を訪ねたところ、編纂委員の方や同じ敷地にある図書館の館長さんから「宮本茶村が編纂した『常陸誌料 諸族譜』の『平氏譜 一』に『太田九藏系図は鉾田の石崎氏所蔵』とあるが、石崎氏は吉見氏に改姓しており、現在の吉見様方(水戸市内)に太田九藏系図は伝わっていない」と、ご教示下さいました。江戸後期に宮本茶村が参照した後で散逸してしまったようです。
また、県市町村史の編纂時に収集した史料を紹介する「史料編」が特に役に立ちますし、「何々市史研究」というような論文集も有用です。時代背景を知るには「通史編」も購入してください。
県市町村史は役所でしか買えない場合もありますが歴史資料館等で販売していることが多く、休日も開館(休館は月曜日が多い)していますので勤め人でも利用できます。
新たに史料が発見されることがありますから編纂時期が新しい方が好ましいですが、しかし、それよりも内容は編纂に携わる方々の意向に左右されることは言うまでもありません。
私の場合、途切れていた東條氏と太田氏を『龍ヶ崎市史』のお陰で接続することができました。『太田氏系図(PDF)』には東條氏から太田氏に改姓したことが記載されているものの、『龍ヶ崎市史』以外では『常陸誌料 平氏譜 一』を引用するときに東條氏から太田氏に改姓したという記述の部分が削除されているため、東條氏と太田氏を第三者の史料でつなぐことができない状態が続いていました。『龍ヶ崎市史』(中世編・中世史料編)を購入した晩にそれを発見し、翌日には『常陸誌料 平氏譜 一』が所蔵されている国立国会図書館(国立公文書館に吸収)を訪ねて複写を申し込みました。『龍ヶ崎市史』は近隣の市町村史と比較して東條氏に関する記述が際立って多く、良質で膨大な情報を享受することができました。
6) 出仕先の藩に残る史・資料を調査する。これも重要な情報源になりました。下記『三つの幸運』をご覧下さい。

7) 時代背景を知るために市販の歴史書を調査する。
書店にあるものの他に、私の場合は例えば京都の思文閣出版社の史学叢書なども購入しました。時代背景を知るために、大いに役立ちます。
我が家の口碑によれば幕末期の先祖(高祖父)は「水戸藩の天狗争乱でひどい目にあった」らしいので、天狗争乱関係の書物や史料を多く集めました。その結果、死罪17名・斬死1名という事件の際に一人だけ助かった(慶應元年10月25日の一件)ものの、政治犯として水戸赤沼牢に投獄されたことで身体的・精神的に大きなダメージを受けたことがわかり、悲痛な思いをさせられました。
歴史書に登場するような人物がご先祖にいれば、調査はかなり楽でしょう。水戸市役所常澄支所の水戸市史編纂室(当時)におられた宮川修先生曰く「よほど偉い人か、または相当悪いことをしないと歴史書には載らない」と。たしかにそのとおりですね。

平成18年(2006)9月、長男が古本市で『水戸義公傳(伝)』(明治44年 博文館)を購入してきました。
これには、東條氏から太田氏へ改姓して2代目の太田九藏(太田助衞門一有)の事績が紹介されていて、そのどれもが私にとって新鮮な情報でした。
南北朝の内乱で南朝に味方したため衰退した東條氏は、遅くとも天文22年(1553)までに関東管領山内上杉憲方の被官である土岐氏の麾下に取り込まれ、織豊後期に土岐氏が後北條氏(小田原北條氏)に与したため豊臣秀吉の小田原攻めに伴う常陸の合戦で佐竹義宣の弟蘆名(芦名)盛重によって没落させられました。天正18年(1590)3月25日(推測)のことです。このときに東條彈正の子、助衞門が生き残り、太田に改姓して江戸に潜伏します。この、初代太田助衞門は江戸に潜伏したままで終わりましたが、長男の助衞門一有が水戸初代藩主徳川頼房(威公)に細工人として出仕しました。
私の調査で、一有の子の歳勝が水戸2代藩主徳川光圀(義公)が開始した史書(後に『大日本史』と命名)の編纂に関わったことは分かっていました。佐々介三郎(スケさん)らと共に安積覺兵衞(カクさん)らと交わした『往復書案』に太田九藏が登場していたからです。しかし、その父である一有の事績は不明でした。
我が家には、普通の位牌のほかに1枚の大きな位牌が伝わっています。これは、厚さ8mmほどの大きな板の中央に「名號 南無阿弥陀佛」と彫られ、反対面の中央には一有の戒名が彫られています。そして、元禄の一有を筆頭に享保年間の人々の戒名が列記されています。これによって当家では一有を特別に扱っていたことに気付いていました。
しかし、その時点までの調査では一有は『寛文規式帳(水府御規式分限)(寛文九年(1669)正月)』(『水城金鑑』所収彰考館文庫蔵))に「町衆」として登場するのみで、水戸藩に細工人として出仕したこと以外の情報が得られていませんでした。
一有以来、太田九藏家は水戸藩で代々細工人を世襲しました。そこで、細工人の歳勝がなぜ史書編纂に関わったのかも疑問に思っていました。
そのあたりが、この『水戸義公傳』を読んだときに氷解したように感じました。すなわち、一有は細工人として徳川頼房から一定の評価を得ていたがために水戸2代藩主徳川光圀に重用され小石川後楽園唐門扁額を彫刻し、光圀が隠居する際には近臣23名の一人として西山荘近傍に屋敷を与えられ、その子 歳勝を当初は細工人として雇用したが資料の調査能力がありそうだということで歩行士に転籍させて史書の編纂に使ったということでしょう。しかし彰考館は世襲を許さず、有能なる者は新規に採用するが、たとえ史館員の子であっても史書の調査・編纂能力が優れていなければ採用されせんでした。それもあって、歳勝の子孫は元の家業である細工人に戻ったと思量されます。そして、歳勝が抜けた穴を弟の東條常言が一時的に細工人として埋めていました。その東條常言も常陸國那珂湊天満宮に実績を残しています。(
Note 5-2をご参照下さい。)
以上のように、市販の文献にも有用な情報源となりうるものが多くありそうです。
また、一人でも多くの協力者(私の場合は長男)を得ることが調査を推進する大きな力となることを実感しています。長男は、現代の細工人になりました。

8) インターネットからの情報
極めて多くの情報が得られます。私の先祖はいくつかの城(近世の天守閣のあるような城にあらず)を持っていましたので、「城」に興味をお持ちの方々のホームページを拝見することで良質な情報を得ることができました。たいへん感謝しています。平安末期の水守城(つくば市水守)、多気城(つくば市北条)、東條太田城(稲敷市)を掲載して下さっているサイトもあって感激しました。

9) 曾祖父母、祖父母、父母、そして伯父・叔父、伯母・叔母等の親戚は情報の宝庫。
現時点で興味がなくても、もしこれらの方々がご健在でしたら積極的にいろいろ聞いておくべきです。私の場合は親の死が先祖調査開始のきっかけになったので後悔先に立たずです。
文久元年(1861)に太田藏吉(私の高祖父)に嫁いだ三宅きむ(高祖母)(
Note 3-1)の家は、藏吉の住む水戸新屋敷花小路(新荘3丁目)の数軒先、楓小路(新荘2丁目)でした。数年後の慶應3年(1867)に夫藏吉を亡くし大正7年に没するまで長男とその妻、孫とともにずっと花小路に住み続けました。ということは、きむは実家から数軒先に長期間生活していたわけですから、生活に困窮していたであろう時期に実家の三宅氏から諸々の援助を受けたことは想像に難くありません。
私の祖父温(きむの孫)は昭和41年(1966)まで生きましたので、三宅氏との交流を含め花小路の様子をいくらでも聞ける状況にあったのに、当時18歳の私は全く興味がなかったので自分から聞いたことが一度もありませんでした。
祖父から一方的に話をされて覚えているのは「先祖が水戸藩士だった」、「那珂川や大洗の浜で泳いだ」くらいです。泳法は、水府流という斜め泳ぎです。水泳の下手な私もどういうわけか水府流だけは上手です。教わってもいないのに。
また、祖父が大事に手入れをしている刀で竹を試し切り(篠竹が綺麗に斬れました)する有様で、その刀が水戸9代藩主徳川齋昭(烈公)から下賜されたものだということを35年後に叔母から聞いて驚きました。刀は大小が揃っていたのに、祖父が亡くなった後に大叔父によって大刀が売却されてしまいましたので、脇差し(PDF)しか残っていません。残念です。
昭和44年(1969)に水戸の神應寺から横浜市営日野公園墓地に改葬した墓(
Note 3-2)には、きむを含むそれ以降の先祖のお骨が入っています。きむの骨壺を見たとき、祖父に何も聞かなかったことを「返す返すも残念だ・・」と後悔しました。

10) 系図の記述や家の言い伝えなどの裏付けをとる。
歴史書、県市町村史、藩の記録文書等は史実ですから、これらの記述との符合点をできるだけ多く見つけます。当家の場合、これまでの調査で系図に関して「ウソ」や「虚飾」が発見されませんので一安心ですが、現時点で確認できない先祖の裏付けをとるのは諦めざるを得ないようです。

先祖調査は、①考えること。②歩くこと。③多くの人から話を聞くこと。④その繰り返し・・・が、当たり前ではありますが有効です。故地とその周辺の歴史資料館に行って関係しそうな資料・史料を購入したり役所で謄本類を入手したりするときに、担当の方に相談したり、またはその方に歴史に詳しい方を紹介してもらって話を伺うと、有用な情報が得られることがあります。また、故地の辺りで古老から昔の話しとか土地の言い伝え等を伺うのも有効です。
上記の順番に進める必要はありません。現時点でできることから始めて下さい。ただし、「除籍謄本」は直ちに取得すべきですし、ご父母、ご祖父母、ご曽祖父母、ご親戚の方々からの聞き取り調査も可及的速やかになさってください。

Note 3-1:
News 平成16年(2004)10月23日、三宅氏のご後裔から e-mail を賜わりました。
上記のとおり三宅氏は、私の高祖母きむの実家です。天狗争乱と、その後の混乱を乗り切られたことがわかり、ほんとうに安心しました。血の繋がる親戚ですから、まだお会いしていないにもかかわらず100年を越える空白を感じない親近感を覚えます。
Note 3-2: 【先祖調査には無関係の世間話】
我が家の墓から徒歩1分の、日野公園墓地に隣接するお寺の墓地には美空ひばりが眠る加藤家墓があります。無償で墓の掃除や管理をされている近所の方が、「墓参りの人が絶えないので墓にお線香を常備しているが、それを盗むヤツがいる!」と憤慨されていました。盗んだお線香を自分の家の墓に使うのでしょうか? それこそ罰当たりですね。
こんな線香泥棒や墓を汚す人間がいるため、近所の石屋さんは加藤家から「墓の場所を聞かれても教えないで欲しい」と要請されているそうです。
先日、我が家の墓掃除をしていて「美空ひばりのお墓は何処でしょうか?」と聞かれ、善良な人に見えたので教えました。ところが、少し経ってから教えた場所が違うことに気付いて走って追いかけ、加藤家の墓まで案内しました。その人に「違う場所を教えられた」と、後々まで恨まれる事態にならずに済んだのですが、数日間は足が上がりませんでした。

先祖調査メモ 【目次】1.まえがき2.調査開始の動機3.調査手順4.三つの幸運5.系図6.古文書の複写


4.【三つの幸運】
一つ目の幸運
は、江戸後期の考証学者宮本茶村(諱: 元球 別号: 水雲 字: 仲笏 通称: 尚一郎)(Note 4-1)が『常陸誌料 諸族譜』の編纂に際し、東條氏から改姓した太田氏を省略せず『平氏譜 一』に記録して下さったことと、且つ『龍ヶ崎市史』がそれを紹介して下さったことです。
『龍ヶ崎市史』以外は、『平氏譜 一』が引用されていても東條氏の部分から太田氏が悉く省略されています。
『龍ヶ崎市史』によって『平氏譜 一』に東條氏から改姓した太田氏の記述があることを知った私は『常陸誌料 平氏譜』を所蔵している内閣文庫(国立公文書館に吸収)に飛んで行って閲覧させていただき、「天正年間(1573~1592)に東條兵庫幹要がおり、子孫が太田氏に改姓した」という記述によって『太田氏系図(PDF)』と第三者が編纂した史料との符合を確認することができました。

二つ目の幸運は、先祖が長期間水戸藩士だったことです。
下士とはいえ水戸藩に最初(頼房の駿府時代は含まず)から最後まで出仕していましたので、藩の複数の資料に先祖の名を発見することができました。
例えば、藩士の役職・知行地・禄高等を記録した文書を分限帳といい、水戸藩ではそれを規式帳と称します。寛文9年(1669)の『水府御規式帳』に水戸初代藩主徳川頼房(威公)に出仕した太田氏2代目助衞門一有の名がありました。規式帳に太田氏の名があるという情報は、『茨城県史』から得られました。
さらに明治44年(1911)博文館発行の『水戸義公傳(伝)』(佐藤進著)には、一有が水戸2代藩主德川光圀(義公)の近臣23名の一人として重用された様子が明確に記されています。
一有の長男であり太田氏3代目の九藏歳勝は光圀の『大日本史』編纂事業に加わり、京都大学文学部に保存されている『大日本史編纂記録/往復書案』にその名がありました。これも、『茨城県史』にそれが紹介されていたことから知ったものです。
太田助衞門一有のお陰で元禄時代には我が先祖も大活躍して、いい生活ができていたようです。
しかし、幕末に水戸9代藩主徳川齋昭(烈公)が亡くなった後には危うい場面(慶應元年10月25日の一件)がありました。
我が家から行方不明になっていた系図は、水戸藩が編纂した系図集『水府系纂』に集録されていました。

三つ目の幸運は、親切で好意的に対応して下さる方々にお遇いできたことです。
いま考えますと、先祖調査を開始した初期は闇雲に動き回っていたというのが実情です。ハイテンションで変なオヤジに、初対面にもかかわらず、皆様が親切、丁寧、且つ好意的に対応して下さいました。
その当時、突撃のターゲットにされた方々には申し訳なく思います。それは、水戸市役所戸籍係の方、水戸市役所常澄支所の水戸市史編纂室(当時)の方、稲敷郡新利根町役場(当時)教育委員会の方、鉾田町役場(当時)の鉾田町史編纂室の方と敷地内の図書館館長、水戸神應寺(神応寺)の副住職、龍ヶ崎市歴史民俗資料館の学芸員の方、牛久市役所の職員の方、その他です。
インターネットが普及してきたこともグッドタイミングでした。歴史系サイトから私にとって有用な情報が発信され、運営者の方々はどなたも好意的に対応して下さっています。

Note 4-1:
News
平成21年(2009)11月7日、宮本茶村のご後裔から e-mail を賜わり、なんと面会までも実現できました。宮本様、ありがとうございます!
宮本茶村が『常陸誌料 平氏譜 一』を編纂される際に太田氏を取り上げて下さったお陰で私の先祖調査が成り立ちましたので、大恩人のご子孫がご健在ということをたいへん嬉しく存じます。
2010年1月10日、宮本家の菩提寺である茨城県潮来市の淨國寺(浄国寺)へ行ってきました。--> Googleマップ 潮来浄国寺

先祖調査メモ 【目次】1.まえがき2.調査開始の動機3.調査手順4.三つの幸運5.系図6.古文書の複写


5.【系図】
私が子供の頃、鶴見の家で祖父太田から家系図を見せられた記憶があります。床の間には大小が置かれ、祖父がよく手入れをしていたのを覚えています。
しかし家系図は、その娘、すなわち私の母が亡くなったときには見あたらず、先祖調査の糸口が見つからなくて途方に暮れました。

ところが、幸いなことに水戸藩には2代藩主徳川光圀の発意で元禄12年(1699)に編纂が開始された『水府系纂(すいふけいさん)』という藩士の系図集があって、原本が公益財団法人徳川ミュージアム(以下 彰考館)に保管されており、その巻53に当家の系図が収録されていることが分かったのです。
水府系纂』の存在をご教示下さったのは水戸市史編纂委員(当時)の宮川修先生で、「水戸藩士だったのなら『水府系纂』を調べればいい。ここにサマリーがあるからご覧なさい。」・・・で、数冊目で私は思わず「あった!!」と大声を上げてしまいました。水戸市役所常澄支所の静かな部屋ですから顰蹙を買ったであろうことを反省しています。
この時点で、位牌のリストに存在する複数の俗名が見つかったのです。このサマリーは、『水府系纂』の各巻に含まれる氏名と職種がリストアップされたものです。
お陰様で先祖調査の太い糸口を掴むことができ、調査は急進展することになります。

このとき、さらに宮川先生が「『水府系纂』の原本は彰考館にあるが、茨城県立歴史館(以下 歴史館)の複写版を閲覧する方が楽ですよ。」とご教示下さいました。その直後、歴史館に飛んで行ったのは言うまでもありません。
歴史館の『水府系纂』は彰考館が所蔵する原本の複写版であり、著作権の関係でコピー不可なので必死に書き写しました。読めない旧字体は象形文字と考えて写し取りました。そして、その文字と同じフォントを検索して行方不明だった家系図を復元しました。
帰宅してから似ている文字が複数あることが分かり、確認のために何回も再訪しました。もし、私と同様に歴史館で筆写される方は、電子辞書を持参されるのがベストです。図書館や、こういう場所には(紙の)辞書を含め「本」の形になっているものは持ち込まないように配慮する必要があります。
その後、彰考館で『水府系纂』巻53の原本を閲覧させていただきました(
Note 5-1)。歴史館が所蔵する複写版は、この原本を撮影したものですから、当然ながら書体も内容も同一です。

その数年後、祖父の弟(大叔父)の家で『太田氏系図』が発見されました。これには鉛筆で加筆した部分があります。これを清書したものが『太田氏系図(PDF)』です。ただし公表を憚る内容が3箇所ありますので、このサイトには当該部分を改変して掲載しています。オリジナルを必要とされる方は、e-mail にてご連絡下さい。公表を憚るとは言いましても、ネット上に晒したくないという程度ですから、個人的にご請求いただければ提供いたします。

ところで、系図を見ると親戚が多いことに気付き、その親戚についても知りたくなります。
太田氏に限っても多くのお嫁さんとお婿さんの実家、女子の嫁ぎ先、そして太田氏分家の東條氏(
Note 5-2)を含めると、人の輪の大きさが実感できます。

Note 5-1: その後、水戸の彰考館文庫では『水府系纂』を含む全ての原本の閲覧ができなくなり、現在は東京世田谷区のレファレンスルームで電子ファイル化されているデータの閲覧と複写のみとなったようです。利用する場合は有料の年間登録と予約が必要ですから、下記公益財団法人徳川ミュージアムのサイトでご確認下さい。
歴史館では従来どおり登録(無料)さえすれば当日に閲覧できますので、閲覧はこちらの方が楽です。
Note 5-2:
News
平成22年(2010)4月14日、太田氏から分家して再興された常陸平氏東條氏へ養子に来て下さった吉三郎常綱の実家である川上氏のご後裔から e-mail を賜わり、ご兄弟を含めて面会できるという機会を賜わりました。
約220年前からの親戚であり、川上様のご実兄である宮野様のお嬢様が私のサイトを発見してくださったのが発端です。
宮野様のお嬢様は、再興された東條氏初代の常言が常陸國那珂湊天満宮の御神体を制作した事実までも発見してくださいました。
さらに、川上様の御母堂は常陸平氏徳宿氏とのこと。1000年遡るとは言え徳宿氏を介して現在もなお我が家と血のつながりを保っているということで、縁の深さを実感しております。

先祖調査メモ 【目次】1.まえがき2.調査開始の動機3.調査手順4.三つの幸運5.系図6.古文書の複写


6.【古文書の複写】
原本を所蔵する機関のほとんどが複写に応じて下さいます。
ただし、その場でコピー機で古文書を複写することはできません。光源が強力なので原本を傷める恐れがあるからでしょう。
写真に撮り、それをプリントしてくれますので受け取るまでに1週間以上必要です。
半紙を半分に折って綴じた形の古文書は、そのまま撮影すると裏写りするため間に白い紙を差し込んで撮るそうですから手数料が嵩むのは仕方がありませんね。

先祖調査メモ 【目次】1.まえがき2.調査開始の動機3.調査手順4.三つの幸運5.系図6.古文書の複写

外部リンク: 熊野新宮速玉大社  公益財団法人徳川ミュージアム公式サイト
各地区の公式サイト: 茨城県筑西市つくば市稲敷市龍ヶ崎市常陸太田市水戸市大洗町潮来市
発掘情報いばらき((財)茨城県教育財団 埋蔵文化財部)  茨城県立歴史館
神奈川県横浜市鶴見区金沢区  国立公文書館

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