祖父母 太田温&うん

『祖父母 太田温とウン』  温 = 明治26年(1893)-昭和41年(1966) 享年74歳/ウン = 明治28年(1895)-昭和38年(1963) 享年69歳
横浜市鶴見区生麦町(現 岸谷3丁目)の自宅にて昭和36年(1962)頃、私がフジペットで撮影。 Googleマップ 鶴見区岸谷

温は、水戸の警察官である捨吉の長男として新屋敷花小路で誕生。大正7年(1918)に祖母きむ(三宅八三郎五女)、翌大正8年(1919)には父捨吉を相次いで亡くし、大正9年(1920)に、母ゑい、弟と3人で横濱に引っ越して来ました。
当初の引っ越し先は、ここ鶴見ではなく、現在の神奈川区子安の辺りだったそうです。その場所で関東大震災(大正12年(1923))に遭います。温が「子安の家は2階建てで、地震のときに下へ降りられなかった」と言っていました。
温は鶴見の旭硝子に就職し、定年後は京急鶴見駅近くの松尾工務店に勤めていました。幼稚園から小学校低学年の頃、途中まで迎えに行くと、普段は怖いおじいちゃんがニコニコして帰ってきた記憶があります。いまは私が孫にバス停で迎えられることがあって、当時の温の気持ちがよく分かります。
ウンは、秋田県雄勝郡下院内(平成の大合併で湯沢市に併合)で誕生し、鶴見の旭硝子で看護婦をしていたときに温と知り合いました。職場結婚です。
ここ、鶴見区に引っ越したのは大東亜戦争(太平洋戦争)の前です。この写真ではよく見えませんがウンの後にソテツ、その後には洋間の外壁が写っています。家の間取りは7Kで、3畳の女中部屋と広い縁側のある大きな平屋でした。石炭で沸かす風呂もありましたが故障して稼働せず、私の無線部屋になっていました。
土地は300坪の細長い形状でしたので、アマチュア無線(HAM RADIO)を始めた私(横浜市立寺尾中学校3年生)には好都合でした。3.5MHzの40mもあるλ/2のダイポールアンテナを張ることができましたし、7MHzのダイポールや50MHzの数波長ロンビックなどは庭に簡単に張れました。HFはよく飛びましたが、VHFは花月園競輪場から横浜市立東台小学校(私の母校)の丘が立ちはだかっていいるため、西の方向にしか飛びませんでした。50MHzの自作6エレ八木で三重県までは飛びました。Es(Eスポ)ではなく、グランドウェーブです。
ここ、鶴見区岸谷は住居表示以前は生麦町で、あの有名な生麦事件(
Note)が発生した町です。第一京浜国道(R15)に面した場所に、篤志家によって建立された慰霊碑があります。キリンビール前の旧東海道を横浜方向へ歩いて第一京浜国道に合流した左側、横浜線の高架橋の手前です。

ウン(優しいおばあちゃん)も温(怖いおじいちゃん)も上の写真の家で亡くなります。温が没したとき、私は18歳でした。
温は水戸に於いて、私の曾祖父捨吉、曾祖母ゑいの実家である備前町の日高氏、高祖母きむ、そしてきむの実家である新屋敷 楓小路三宅氏等とはリアルタイムで接していたわけです。幼児期を除いても20年間ほどの記憶はあるはずなので、お付き合いの様子も、花小路や楓小路の話も、私はいくらでも聞くことができたはずです。後悔しても始まりませんが、当時の私は先祖への興味などは皆無でした。温もそれを察してか、あまり話してはくれませんでした。
ですから、先祖調査メモにも書いておりますように、このサイトの訪問者のご両親、祖父母、曽祖父母、伯(叔)父、伯(叔)母、大伯(叔)父、大伯(叔)母等の方々がご健在であれば、いろいろ聞いておかれることを
強くお薦めします。いまは興味がなくても、私のように何かのきっかけで先祖調査に没頭する事態になるかもしれません。

私を含む一家は、温の死去により金沢区に引っ越します。鶴見時代に温が家系図を見せてくれた記憶がありますが見当たりませんので、この引っ越しのときに廃棄してしまったようです。一方、庭にあった木はたくさん運んできました。サルスベリ(百日紅)ドウダンツツジ(満天星)ザクロ(石榴)、モチノキ(黐の木)、モクレン(木蓮)等です。40年後のいま、モクレンだけは一旦枯れて蘖(ひこばえ)から花が咲く状態ですが、その他は皆元気です。モチノキは、この写真のように道路にはみ出すほど大きくなりました。

Note: 生麦事件 = 文久2年(1862)8月21日 14:00頃、江戸から帰京途中の島津久光(薩摩藩主の父)の大名行列に遭遇したリチャードソンほかが乗馬のまま行き交わそうとして斬られた事件。翌年、この事件が薩英戦争に発展。(『歴史年表(PDF)』参照)

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