曾祖母 太田ゑい

『曾祖母 太田ゑい』  明治5年(1872)-昭和27年(1952) 享年81歳
横浜市鶴見区生麦町(現 岸谷3丁目)の自宅にて昭和26年(1951)頃撮影

水戸で、大正8年にゑいが48歳のときに夫の捨吉が56歳で亡くなり、ゑいは長男の(私の祖父)と四男の茂(私の大叔父)と共に横濱に引っ越してきました(次男、三男、長女は早世)。転居した当初は子安の2階建てだったそうです。祖父が「関東大震災のとき、2階から下りられなかった」と言っていました。その後生麦町(現岸谷3丁目)に平屋の大きな家を建てます。戦前のことです。
この写真は、ゑいが80歳くらいのときに生麦の家の応接間で撮ったものです。
左手に見える手回し式の大きな蓄音機(レコードプレーヤ)を覚えています。針は鉄で、78回転(78 rpm)のSP盤は落とすと割れてしまいました。
ゑいは水戸市備前町の日高家から捨吉に嫁ぎ、写真のとおり矍鑠とした人でした。その厳しい教育のお陰か、長男のは、私にとっては「怖ーいおじいちゃん」でした。押し入れに入れられて泣いたことを想い出します。
ゑいが亡くなったとき、私は幼稚園に入る少し前ですが、その日のことを覚えています。早朝、障子一枚隔てた隣室で祖父母や母が慌てている様子でした。子安(横浜市神奈川区)の火葬場の様子も覚えています。今は住宅や学校が建ち並んでいますが、当時は周囲に建物はほとんどありませんでした。
曾孫の私と妹は、ゑいを「(小さくても)大っきいバア」、祖母のウンを「バアちゃん」と呼んでいました。温の弟茂(私の大叔父)も子供とともに近所に住んでいました。

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