故地
我が家の生活基盤は当初は千葉県、その後、通算900年間ほどは茨城県でした。そのうち約430年間は現在の稲敷市です。下記は、私の先祖が平安時代前期から大正時代まで居住し、お世話になった各地です。『Profile』、『太田氏概説』と併せてご覧下さい。
平安時代前期(昌泰(しょうたい)元年(898)頃)~平安時代中期((承平(じょうへい)また(しょうへい))5年(935))頃(Note 1-1)
筑波山西麓 筑西市東石田 Googleマップ 茨城県筑西市: 平國香
(たいらのくにか)が本拠地としました。約37年間居住
寛平2年(890)5月12日、國香(当時は良望と称す)の父高望王(桓武曾孫)が平姓を賜わり、昌泰元年(898)4月に上総介に任じられて妻や長男の國香、その弟らと共に京都から上総國へ引っ越してきました。
國香は女
(むすめ)を常陸國新治郡大串(下妻市大串)を本拠とする常陸大掾(ひたちのだいじょう)の源護(みなもとのまもる)(嵯峨源氏または仁明源氏)の(むすこ)に嫁がせて姻戚関係を結び常陸國へ移住、やがて國香自身が常陸大掾職に任ぜられます。
國香は真壁郡石田(筑西市東石田)、その弟平良兼は服織(旧真壁町羽鳥)、同じく弟平良将(良持)は下総國豊田郷(結城郡石下町)、同じく弟平良文は筑波郡水守郷(つくば市水守)を本拠地とします。
承平元年(931)になると、平良将(良持)の男、つまり國香の甥にあたる平将門
(たいらのまさかど)は、源護や同族である平氏一族と所領争いと女論から戦いになり、國香は姻戚関係にある源護に味方したため承平5年(935)2月4日、将門勢に追い詰められ居宅に火をかけられて自殺するに至りました。
承平の頃は将門と同族間の私闘、すなわち親戚同士の内輪揉めでしたが、天慶
(てんぎょう)2年(939)に将門が常陸國府を襲った時点で国家に敵対する叛乱に拡大し、将門が京の朝廷に対抗して「新皇(しんのう)」を宣言するに至り乱の頂点に達します。これは、2件の『天慶の乱(てんぎょうのらん)』(Note 1-2)の一つ、『平将門の乱』と呼ばれます(もう一つの『天慶の乱』は瀬戸内海で起きた『藤原純友の乱』)。
天慶3年2月14日(940年3月25日)の幸島郡北山の戦いで、藤原秀郷
(ふじわらのひでさと)の協力を得た國香の長男平貞盛(たいらのさだもり)の放った征矢(そや)が将門の眉間に命中し(Note 1-3)、落馬した将門は秀郷に首級(しるし)を取られたとされています。
『平将門の乱』は私の先祖一族の内訌が発端であり、それ以外の人々にとっては迷惑千万・被害甚大な事件でした。この争乱で、板東の多くの地域、特に常陸、下野、上野、そして下総を戦乱に巻き込んでしまいました。その後遺症は大きく、田畑の荒廃が100年も続いたと言われます。
『平将門の乱』は朝廷を震撼させる大事件でした。成田山新勝寺が朱雀天皇の密勅により『平将門の乱』の平定を祈願して天慶3年(940)に開かれたということが、それを物語っています。
國府を襲ったことから朝敵として誅殺された将門ですが、将門にしてみれば藤原忠平に仕えて京にいる間に父の遺領を親戚が寄ってたかって侵略し横領していたから戦ったのであり、「新皇」の宣言は元武蔵権守の興世王ら周囲の進言を容れたのでしょう。遠祖國香を殺されはしましたが私には将門を憎む感情はありません。
『平将門の乱』については『歴史年表(PDF)』の承平元年(931)以降に将門記を引用して詳しく載せています。
『平将門の乱』の鎮定に功ある者のうち貞盛の子孫は平氏本流の伊勢平氏となって清盛の代で平家の絶頂期を迎え壇ノ浦で絶えます(
Note 1-4)が、藤原秀郷の子孫は現在もなお繁栄し続けています。これが「秀郷流藤原氏」です。

Note 1-1: 当サイトの時代定義
平安時代は、桓武天皇により平安遷都が成った延暦13年(794)を始期とし、源頼朝が追捕使と地頭の補任権を得る、言い換えれば頼朝が事実上日本の支配権を握った元暦2年(1185)を終期としています。
そして、延暦13年(794)~延喜23年(923)を前期、延長元年(923)~久安6年(1050)を中期、仁平元年(1051)~元暦2年(1185)を後期としました。つまり、平安時代391年間を単純に三等分せず、切りの良い改元の年を区切りとしました。
Note 1-2: 『承平・天慶の乱』と呼ばれることがありますが、承平の頃は「乱」にまでは至っておらず同族間の「内輪揉め」です。(Note 1-5)
Note 1-3: 幸島北山の合戦に於て、将門に命中したのは貞盛でなく秀郷の男千常が放った矢であるという説もあります。
Note 1-4: 壇ノ浦で絶えたのは、貞盛の子孫のうちでもいわゆる平家一門と、その郎党です。中国では、易姓革命の政治思想から前王朝の庶流の子孫までも徹底的に探し出して殲滅するのが普通でしたが、日本にはそのような思想がないので、貞盛の子孫の庶流はもちろんのこと、平家一門でさえも生き残った人はいたはずです。
Note 1-5: 「乱」の定義について、当サイトでは「国家に敵対する叛乱」を「乱」と捉えております。
平國香説明板 平国香説明板』 (旧)明野町教育委員会
昌泰元年(898)~承平5年(935) 37年間在住(上総國在住期間含む)
茨城県筑西市東石田の長光寺門前。
明野町道路標識 (旧)明野町標識』 茨城県筑西市
昌泰元年(898)~承平5年(935) 37年間在住(上総國在住期間含む)
平國香の本拠地です。
明野町東石田道路標識 (旧)明野町東石田標識』 茨城県筑西市
昌泰元年(898)~承平5年(935) 37年間在住(上総國在住期間含む)
ここには、平國香の居宅がありました。平國香は承平5年(935)将門方から居宅に火をかけられ自殺しました。

平安時代中期(承平5年(935)頃)~平安時代後期(永暦((えいりゃく)また(ようりゃく))元年(1160)頃)
筑波山南西麓 つくば市水守と北条 Googleマップ 茨城県つくば市水守: 平維幹
(たいらのこれもと)から、5代後の平忠幹が信太郡(文禄4年(1595)から河内郡)東條の地へ移るまで約225年間居住。
長兄の義幹は、忠幹が引っ越した後も建久4年(1193)に源頼朝に滅ぼされるまでまでこの地を本拠としました。

『平将門の乱』鎮定の功で従五位上に昇進した平貞盛は京へ戻ります。そこで、貞盛は弟繁盛の男維幹を養子にして常陸國の全所領を維幹に譲渡しました。(Note 2-1)
平維幹は、なりふり構わぬ手段、例えば貴族藤原氏への贈賄などで経営に励み常陸平氏祖となります。以来、常陸平氏は維幹の「幹」を通字
(とおりじ)(Note 2-2)とします。『桓武平氏略系図(PDF)
果たして、維幹の努力は報われました。万寿4年(1027)前後に千葉県で上総介平忠常
(かずさのすけたいらのただつね)が暴れた『平忠常の乱(たいらのただつねのらん)』の頃、維幹は水守(つくば市水守)と多気(つくば市北条)に館を持ち大きな勢力を有していました。官軍である忠恒追討軍の2千騎を率いる常陸介源頼信に維幹が私的に提供した援軍は、官軍の数を大きく上回る3千騎だったことから、維幹の勢力の大きさを推測することができます。維幹の支援を得た源頼信は、長元4年(1031)『平忠常の乱』を平定することができました。
上総國の平忠常も、常陸平氏から範囲を広げて板東平氏という面では平維幹と同族ですが、両家は彼らの先祖の代から争っていて、維幹は官軍に味方すれば朝敵として忠常を討つことができるチャンスと捉えたはずであり、願ったり叶ったりの状況でした。
ところで、現代も同じですが財を築いた人の子は増長してダメオやダメコになりがちで、常陸平氏宗家2代目の平為幹は問題児だったかもしれません。「常陸介藤原惟通(紫式部の弟)の没後、寛仁4年(1020)7月、惟通の妻を常陸大掾平維幹の男で常陸平氏宗家2代目の為幹が襲う。『歴史年表(PDF)』」という事件を起こしました。
為幹が問題児か否かはともかく、常陸平氏は繁栄し続け3代目重幹(繁幹)の男が吉田氏、石毛氏、小栗氏に分かれ、吉田氏は石川氏、馬場氏へ、吉田氏はまた行方氏、鹿島氏へ、行方氏は小高氏、嶋崎氏、麻生氏、玉造氏へ、鹿島氏は徳宿氏、烟田氏へと発展して行きます。『桓武平氏略系図(PDF)
常陸大掾識は重幹の長男致幹が継いで常陸平氏宗家4代目となり、致幹の男5代目直幹は平安後期、男4兄弟のうち3人へ領地を割譲し、それぞれ名前に領地名を冠して独立しました。先ず4男が仁平元
((にんぺい)(にんびょう)(にんひょう)(にんへい))年(1151)以前に下妻(茨城県下妻市)を領して下妻四郎弘幹(しもづましろうひろもと)、我が5男は永暦元年(1160)頃に東條五郷(小野(稲敷市小野)・朝夷(稲敷市下根本)・高田(稲敷市高田)・乗浜(稲敷市神宮寺・阿波)・稲敷(龍ヶ崎市八代町))を領して東條五郎左衞門尉忠幹(とうじょうごろうざえもんのじょうただもと)、6男は承安((じょうあん)(しょうあん))2年(1172)に真壁(茨城県桜川市)を領して真壁六郎長幹(まかべろくろうながもと)と、それぞれ名乗ります『桓武平氏略系図(PDF)』。ただし、長男義幹は、末っ子の長幹が真壁を名乗った頃にもまだ独立できずにおり、安元2年(1176)に父母を殺害して(Note 2-3)強引に常陸大常識と多気の所領を相続したようです。多気太郎義幹(たきたろうよしもと)と名乗りました。
一方、京の都では貞盛の子孫が繁栄し、仁安2年(1167)には清盛が太政大臣に上り詰めるなど平家一門が全盛期を迎えていました。

Note 2-1: この優しさが、その後の平氏に連綿と受け継がれ、平家絶頂期を演出した平清盛にして源頼朝の助命という失敗を犯す遠因になったという指摘があります。
対して源氏は頼朝のように、昨日までは頼れる存在だった人物(例えば上総介廣常)でも容赦なく粛清し、さらに子供(例えば木曽義賢)でさえ、将来危険な存在になりそうなら殺してしまうという冷酷さを有し、且つ徹底しています。
Note 2-2: [語句説明] 広辞苑によれば、つぎのとおりです。
通り字(とおりじ) = ①祖先から代々伝えられて人の実名に付ける文字。平氏の忠盛・清盛・宗盛の「盛」の字の類。つうじ。狂、比丘貞「家に伝はる-とやらいふ事があるげなが」  ②省略
Note 2-3: 『龍ヶ崎市史』によれば、『吉記』安元2年6月18日条に父母を殺害した旨の記述があるそうです。
水守城址 水守城址』 茨城県つくば市水守
承平5年(935)頃から永暦元年(1160)頃まで、ここ水守多気に225年間在住。
『将門記』に「水守の営所」とあり、その当時からここには何らかの施設が存在したようです。
多気城址遠景 多気(たき)城址と筑波山』 茨城県つくば市北条
承平5年(935)頃から永暦元年(1160)頃まで、水守多気に225年間在住。
常陸大掾であり常陸平氏惣領の多気太郎義幹居城多気城址の遠景。その向こうは筑波山。この写真を撮るとき、義幹と幕末の藤田小四郎が重なって見えるように感じました。
多気城址中央 多気城址中央部』 茨城県つくば市北条
承平5年(935)頃から永暦元年(1160)頃まで水守と、ここ多気に225年間在住。
現在の遺構は戦国期のものと見られるそうです。増改築したのは源頼朝と策略を廻らせ常陸大掾多気太郎義幹を没落させた小田氏かもしれませんし、その小田氏を逐うために佐竹氏が改修したのかもしれません。
多気日向廃寺跡 日向廃寺跡』 茨城県つくば市北条
承平5年(935)頃から永暦元年(1160)頃まで、水守多気に225年間在住。
日向廃寺跡は、多気城址の南側真下です。我々4兄弟の長男多気太郎義幹が造営したようです。

平安時代後期(永暦元年(1160)頃)~鎌倉時代~室町時代~織豊時代(天正18年(1590))(Note 3-1)
稲敷市 Googleマップ 稲敷市下太田: 平忠幹が東條五郎左衞門尉忠幹と名乗ってから、豊臣秀吉に滅ぼされるまで約430年間居住。

東條忠幹が領した信太郡東條(小野川の東側(ちなみに西側は信太荘))は、康元元年(1256)8月以前、3代清幹か4代宗幹の頃に熊野新宮速玉社へ寄進し立荘して東條荘となりました。
後に起きる源平争乱は源頼朝が勝利を収めますが、頼朝の軍勢のほとんどは板東で繁栄していた平氏です。したがって、実態は「源平合戦」ではなく「平平合戦」であり、源氏・平氏連合軍 vs 平家ということです。頼朝挙兵前後の様子は『歴史年表(PDF)』に詳細を集録しています。
4兄弟のうち、真壁氏は環境の変化を読み取る能力に長けていたのでしょう。各時代の勝ち組に付くことができて江戸時代も乗り切りました。
長兄の多気氏と次兄の下妻氏は、鎌倉初期の建久4年(1193)に源頼朝により没落させられています。ただ、多気氏は殺されたわけではなく領地没収と官職剥奪であり、相模國芹澤へ移住し芹澤氏として復活、子孫が常陸國へ戻り繁栄して現在へ続きます。(
Note 3-2)
我が東條氏はと言うと、風と空気を読むのがよほど下手だったようです。せっかく鎌倉時代後期から南北朝内乱初期に繁栄したのに、織豊後期に豊臣秀吉の敵に回って没落してしまいました。

ところで、平安時代後期の永暦元年(1160)頃に信太郡東條五郷を領した平忠幹が東條太田を拠点として東條氏を名乗り、織豊後期の天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めに伴う常陸國の合戦で東條彈正某が討死するまでは実に430年という長期間でした。ですから、その間には下記のようなさまざまな重大問題に対処しなければなりませんでした。

重大問題 その1: 『志田(信太)義廣の反乱(野木宮合戦)に荷担~頼朝に惨敗』
源為義の3男で頼朝の叔父にあたる志田三郎先生源義廣
(しだのさぶろうせんじょうみなもとのよしひろ)は、忠幹が信太郡東條を領する頃には既に常陸國へ潜入して信太荘浮島に居住し、信太荘の庄司代行をしていたようです。
治承4年(1180)、頼朝が佐竹氏征討のため常陸へ進軍して来たとき、義廣は平家追討の以仁王令旨を持って来合わせた弟の新宮十郎行家と共に府中(石岡)で11月4日に頼朝と面会しました。このとき頼朝が叔父の義廣に対して不遜な態度をとったとして、頼朝に嫌悪感を覚えます。さらに鹿島社領の横領を頼朝に諫められ、加えて平宗盛の甘言もあったらしく、ついに鎌倉を攻撃するため寿永2年(1183)2月20日に挙兵します。
しかし、結局は同年同月23日、義廣軍3万は下野小山朝政の奇策によって打ち破られます。小山朝政は義廣に与同の意を示したことから油断した義廣が下野國野木宮まで進軍して来たところを急襲(野木宮合戦)したため義廣軍は総崩れとなり、義廣は木曾義仲の陣中に転がり込んだとのことです。
義廣方は多気義幹・下妻弘幹・東條忠幹・真壁長幹の4兄弟、鹿島氏一族等の常陸平氏、佐竹氏の一部、下野小山氏の関政平ら常陸國・上野國・下野國の約3万。出陣の際には加わっていた常陸平氏小栗氏は離脱して鎌倉側に回りました。鎌倉方は小山朝政、その弟宗政、同族で古河の下河辺行平、その弟政義、小栗氏、そして八田知家でした。
志田義廣に荷担したことが、頼朝政権安定後、建久4年(1193)6月22日の多気義幹追放、同年12月13日の下妻弘幹梟首、そして下記「重大問題 その2」の原因の一つとなったでのでしょう。東條氏は所領西端の稲敷郷(龍ヶ崎市の一部)を没収されて竜ヶ崎氏祖となる下河辺氏の手に渡り、東條荘の北に隣接する信太荘は八田知家の所領とされました。真壁氏、鹿島氏等は、敗戦後の源頼朝との関係修復がよほど上手かったのでしょう。

重大問題 その2: 鎌倉時代 『鎌倉幕府からの冷遇』
頼朝の挙兵に際しても、さらにその後も「敵対こそしない(志田義廣の反乱の際には敵対しました)が積極的には頼朝に協力しない」という態度だったようで、鎌倉殿(頼朝個人、転じて鎌倉幕府)から睨まれ、存続のために幕府の御家人(例えば國井氏・中郡氏・那珂氏等)と姻戚関係を結んだり、領地に多くの分家を配置して嫡流を不明確にしたり、東條の地を熊野新宮速玉社へ寄進して立荘したりして鎌倉時代を乗り切りました。
頼朝は鎌倉時代初期に我々4兄弟の長男多気義幹を追放し、4男下妻弘幹を殺していますから、5男の我が東條忠幹が頼朝に協力したくないのは当然でしょうが、しかし、長いものには巻かれないと殺されてしまいます。5男と6男が無事だっただけでも幸いかもしれません。
やがて、鎌倉時代も後期になると東條氏は興隆の時代を迎えます。

重大問題 その3: 南北朝内乱期 『南朝方として挙兵~北朝方へ降伏』
南朝と北朝のどちらが正統かというような高いレベルの話しではなく、全ての武士団は風と空気を読んで誰と与すれば生き残れるのかを模索していました。
東條氏は東條五郷を領しましたが、下記のように突然北朝方足利尊氏が高田郷(稲敷市高田)を東條氏から没収して佐佐木定宗へ与えるという事態が発生しました。東條氏は当然ながら南朝へ靡き、備えに神宮寺城を築きます。
南北朝内乱初期は南朝方が優勢でしたが、次第に劣勢となり、結果は北朝方に降伏する羽目に陥ります。しかし、不思議なのは南朝方として戦っている最中にも、そして降伏後も鹿島大使役を務めていることです。鹿島大使役を務めるのは、真壁氏が負担の大きさから辞退したことがあるように財政的負担が大きいそうですが、それよりも族滅するかもしれない状況のときに、私だったらそんな余裕はないと思います。
太田氏概説』より引用:
南北朝内乱初期の東條荘は全盛期を迎えた東條氏の統治が確立していたが延元元年(北朝建武3年)(1336)北朝方足利尊氏が高田郷を佐佐木定宗へ与える。高田郷を没収された東條氏は南朝へ靡き、備えに神宮寺城を築く。
延元2年(北朝建武4年)(1337)常陸南朝勢は東條太田城に挙兵。延元3年(北朝暦應元年)(1338)9月、南朝の准后北畠親房は勢力立直しのため約500艘の大船団で吉野から陸奥へ向かうも伊豆沖で暴風に遭い船団は四散、親房ら数百は東條浦へ漂着し東條氏の案内で神宮寺城へ依った。
同年10月5日、北朝方の佐竹義篤に率いられた大掾高幹、鹿島幹寛・幹重父子、烟田時幹、宮崎幹顕ら(全て常陸平氏)が霞ヶ浦を渡って来攻。神宮寺城は程なく落城。親房主従は阿波崎城へ移り、救援の小田治久により小田城へ入る。
興國2年(北朝暦應4年)(1341)年9月17日、北朝方屋代彦七信経・別府幸實らが信太荘佐倉楯(江戸崎町)・河内郡馴馬楯(龍ヶ崎市)・東條太田城・龜谷城(江戸崎町)攻略。同年10月5日、東條氏は余力を残して北朝方に降伏。

重大問題 その4: 織豊後期 『後北条氏(小田原北條氏)への与同~結果は滅亡』
南北朝内乱で体力を消耗した東條氏も應永(応永)11年(1404)までは鹿島大使役記(
Note 3-3)に登場しますので、この頃までは充分な勢力と財力を保っています。
一方、江戸崎には嘉慶元年(1387)に土岐氏傍流の原刑部少輔秀成が関東管領山内上杉憲顕の被官として移住して来ていました(土岐原氏を名乗り、後年美濃の本家を譲られ土岐氏)。
應永(応永)30年(1423)8月、山内上杉清方に従う土岐原憲秀(2代目)は、鳥名木國義、烟田幹胤を含む鹿行諸氏、東條氏らを率いて小栗城(協和町)の山入与義を攻めていますので、東條氏もこの頃は一定の勢力を保っていたことが分かります。
永享12年(1440)の『結城合戦』のときには龍ヶ崎氏に拠っていたもようです。
文明13年(1481)5月5日の常陸國『小鶴原の合戦』のとき、東條氏は常陸大掾氏、北條氏、真壁氏、笠間氏らと共に小田成治に従って水戸の江戸氏と戦っていますので、何とか復活したようですが、その後、土岐氏と姻戚関係を結んで友好的に土岐氏勢力圏へ吸収されたようです。
私は、その背景をつぎのように推測しています。江戸崎土岐原氏4代目の景成が明應6年(1497)に亡くなりましたが嫡男がなく、そこへ付け込んだ小田氏に攻められ敗北。しばらくの間、小田氏に臣従したようです。その後、土岐氏旧臣が美濃から来た治頼を土岐原氏5代目として迎え、大永3年(1523)から勢力を挽回する過程で隣接地の東條氏を誘ったのではないでしょうか。衰亡しつつある東條氏にとっては願ってもないことだったと思われます(
Note 3-4)。
天文22年(1553)には既に東條氏は土岐氏の麾下に取り込まれており、この年に土岐氏が小田氏治(天庵)と戦ったとき東條泉城主東條兵部少輔重定(土岐萬木
(まんぎ)氏族なので東條氏への婿殿)が小坂で討死しました。その子乙丸は脇墾田の土民に助けられ、それを知った和泉の土民が乙丸を連れ帰り養育、乙丸は後、東條彦右衞門と改め子孫は龍ヶ崎市で現在に至ります。東條泉氏の位牌は江戸崎観音寺にあり家紋は桔梗とのことです。
弘治元年(1555)、土岐氏の意向に従い東條英重(東條英幹男)が東條泉城主となりました。つぎの来迎院多宝塔銘文から思量するに土岐氏はこの系統を東條氏宗家と扱ったようです。
龍ヶ崎市馴馬の来迎院に現存する多宝塔を土岐氏が主体となって修復した弘治2年(1556)5月付多宝塔相輪の宝珠銘文を江戸後期の考証学者宮本茶村が調査し書き写しており、そのリストから東條氏が土岐氏に協力したことが分かります。
その土岐氏は小田氏との抗争と内紛で疲弊し、佐竹氏の南下政策に対抗するため後北條氏(小田原北條氏)に与したため、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めに伴う常陸國の合戦で標的にされ、秀吉方佐竹義宣の弟、蘆名盛重に率いられる神野覚助に攻められます。このとき、土岐氏当主治綱は江戸崎城主、その弟胤倫は支城の龍ケ崎城主、治綱の男頼英は支城の東條太田城主でした。
私の直系の先祖東條彈正某は、天正18年(1590)3月25日に討死。東條太田城落城。最後の東條太田城主となった土岐頼英は父治綱の江戸崎城に籠城していたはずですから、東條太田城は東條彈正ほか少ない人数で守っていたと推定されます。
龍ケ崎城主の土岐胤倫は討伐軍の到着前に開城して遁走。江戸崎城主である兄の治綱と仲違いしていたことから戦いに嫌気が差したのかも知れません。江戸崎城は5月20日に開城。土岐氏は家臣数十名と帰農します。ちなみに、横浜三渓園の原三溪も土岐氏の裔とのことです。
宮本茶村編纂の『常陸誌料』によれば、東條氏没落2年前の天正16年(1588)に彈正某の父東條兵庫幹要が土岐氏(たぶん)に宛てて「誓書」を書いています。その誓書を書いた兵庫幹要は既に没していたか、または彈正某と共に戦死したと思われますので、ここで東條氏は一旦滅亡します。
そのとき、東條彈正の子の助衞門某が生き残りました。助衞門某は後北條氏方残党探索の手から逃れるため太田に改姓して江戸に潜伏し、太田氏初代となります。
なお、東條氏の生き残りは、上記東條泉氏、我が東條改太田氏、そして東條英機さんの系統が知られており、東條英機さんのご先祖は遠く東北地方まで逃げたようです。東條高田氏、東條大沼氏の何れかの系統か、またはその他か、分かりません。

Note 3-1: 当サイトの時代定義
◎鎌倉時代は、源頼朝が追捕使と地頭の補任権を得た、言い換えれば頼朝が事実上日本の支配権を握った寿永4年(1185)を始期とし、新田義貞の鎌倉攻めで北條一門が倒される正慶2年(南朝元弘3年)(1333)を終期としています。
そして、寿永4年(1185)~天福2年(1234)を前期、文暦元年(1234)~弘安11年(1288)を中期、正應(正応)元年(1288)~正慶2年(南朝元弘3年)(1333)を後期としています。つまり、鎌倉時代148年間を単純に三等分せず、切りの良い改元の年で区切りました。
◎室町時代は、足利尊氏が室町幕府を開いた建武3年(1336)を始期とし、南北朝内乱期と戦国時代を含み足利義昭が織田信長に京都を逐われる元亀4年(1573)を終期としています。
◎戦国時代は、『應仁(応仁)の乱』が始まった應仁元年(1467)を始期とし、織田信長の出現で乱の沈静化が始まるまで、すなわち信長の力で足利義昭が室町幕府の将軍になる永禄11年(1568)を終期としています。この時点では室町幕府は存続していますので、まだ室町時代です。
◎織豊時代は、織田信長が出現した永禄11年(1568)を始期とし、豊臣氏の終焉、すなわち関ヶ原の合戦で德川家康方が豊臣氏側に大きなダメージを与え事実上天下を取る慶長5年(1600)を終期としています。織豊時代は、文化史では安土桃山時代と一致します。
Note 3-2: 多気義幹と八田知家
多気(つくば市北条)を本拠地として栄えた常陸平氏宗家は、6代目多気義幹のときに災難に見舞われます。
源頼朝は、源平合戦で戦功をあげた八田知家(小田氏祖)に常陸國守護職を与えて常陸大掾多気義幹の多気城と目と鼻の先の小田に配置し、知家は小田城を築きます。多気城から南南東へ僅か3.8 Kmという至近距離ですから、頼朝の意図は明白です。
八田知家は、多気義幹が設けた灌漑用水路を「多気城の防備増強のための堀である」と幕府に訴え、加えて建久4年(1193)5月28日夜に発生した曾我兄弟の仇討ち事件に際しては予め義幹に「不穏な動きがあるから注意するように」と告げて多気城に籠もらせておき、事件後に「いざ鎌倉!と駆けつけなかったのは義幹に謀反の心あり」と幕府へ訴えました。義幹は同年6月22日に鎌倉で知家との裁判に臨むも敗訴、多気の所領を没収され常陸大掾職を剥奪されます。八田知家はこの機に乗じて常陸大掾識を欲しますが認められず、大掾職は義幹と同族である常陸平氏の馬場資幹に与えられました。
頼朝に多気を逐われた多気氏は相模國芹澤に移住して芹澤氏を名乗りました。さらに代が変わり天文年間に常陸國へ戻って行方郡に芹澤城を築きます。ところが、天正19年(1591)3月に今度は佐竹氏に逐われてしまいます(
Note 3-6)。しかし、芹澤氏はへこたれることなく江戸期も乗り切ります。土浦市の開業医がご後裔とのこと。
常陸平氏の通字である「幹」から、200石の水戸藩士となった芹澤高幹(『先祖調査メモ』>『水府系纂目録』>『』)が該当すると思いますが、違うという指摘もあります。
Note 3-3: 鹿島大使役記(かしまだいしえきき)
鹿島神宮で7月に行なわれる例大祭は朝廷が派遣する勅使が大使役を務めて祭礼が執り行なわれていましたが、中世になると朝廷の財政事情の悪化で在地の常陸大掾が大使役を務めるように改められました。常陸平氏7家(鹿島・吉田・行方・大掾・真壁・小栗・東條)で毎年順番に担当し、國府の大掾氏以外が大使役を務める場合は、臨時に大掾職が与えられたそうです。常陸平氏以外を排除することで一族の結束が図られ、外部に対しては常陸平氏の権威を示す効果がありました。
年と家名をリストアップしたのが『鹿島大使役記』で、江戸後期に宮本茶村が『常陸誌料』の編纂に活用しています。大使役を務めるには相当の財力が必要ですから、その家が健在か否かを量ることができます。
不思議なのは、南北朝内乱で南朝方として戦った東條氏が北朝方に降伏したのが暦應4年(1341)10月であり、その僅か3ヶ月前の7月に東條氏が鹿嶋大使役を務めていることです。すなわち、もうすぐ降伏しなければならないような切迫した状況下で大使役を務めたことになります。さらに、降伏直後から鹿島大使役を複数回務めている(『歴史年表(PDF)』)のは財力を含め余力を残して戦っていたことを意味します。また鹿嶋大使役は合戦に優先するほどの重大な務めだったのかもしれません。
Note 3-4:土岐氏
貞治2年(南朝正平18年)(1363)、山内上杉憲顕が鎌倉御所の招きで関東管領に復職するとき、美濃國守護土岐氏傍流の原刑部少輔秀成を帯同しました。
そして嘉慶元年(南朝元中4年)(1387)、原秀成は山内上杉憲方の被官として江戸崎に移住し信太庄惣政所を開設しました。秀成は、土岐原氏を名乗り初代となります。江戸崎城を本拠とする土岐原氏は、支城の龍ヶ崎城、木原城(美浦村)を築き信太・東條一帯を統治します。
天文12年(1543)、美濃國守護の土岐頼芸が斉藤道三に逐われ、江戸崎の土岐原治頼に土岐氏惣領を譲り、治頼の次の治英から土岐氏を名乗ったと言われます。
土岐氏は小田氏との抗争で疲弊し、常陸國の北の雄である佐竹氏の南下政策に対抗するため後北条氏に与したことから、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに伴う合戦で滅ぼされます。江戸崎城が落ちるとき「一兵たりとも損せずに」土岐治綱が降伏したと言われますが、発掘調査で婦女子を含む夥しい人骨が発見されたそうですから、それほど平和裡に最後を迎えたのではないのかもしれません。死んでから切りつけられたと推測される骨があるとのこと。何か宗教的な意味があるのでしょうか。
土岐治綱は数十名の家臣と共に帰農して命脈を保ちます。治綱の弟で、兄と仲が悪かった龍ヶ崎城主の土岐胤倫は秀吉方の到着前に開城して諸処浪々の身となり、やがて龍ヶ崎に戻って子孫は母方の豊嶋氏を名乗ります。
土岐氏の下にいた東條氏が滅亡させられたにもかかわらず、土岐氏が滅亡を免れたことは秀吉の意志によると推測されます。さらに後年、徳川家康は土岐頼英と誼を通じます。これは、本能寺の変に於いて家康が明智光秀と同盟していたことを意味するのかもしれません。
Note 3-6: 芹澤氏が佐竹氏に逐われる1ヶ月前の天正19年(1591)2月9日には、佐竹氏による「南郡三十三館主一挙生害(南方三十三館の仕置き)」という事件がありました。もし佐竹氏が芹澤氏を強敵と見ていたなら、このときに殺されていたでしょう。下記のとおり、この事件の犠牲者は全て芹澤氏と同じ常陸平氏であり近隣の城主です。翌3月には芹澤國幹が放逐されます。

以下、『歴史年表(PDF)』より引用
天正19年2月9日(1591年4月2日) 「南郡三十三館主一挙生害(南方三十三館の仕置き)」
2月9日(1591年4月2日) 「南郡三十三館主一挙生害(南方三十三館の仕置き)」
前年、天正18年(1590)7月に後北條氏(小田原北條氏)を倒して全國統一を実現した豊臣秀吉は同年8月に常陸一國を佐竹義重・義宣父子に与えるが、南部の特に鹿行地域には常陸平氏を中心とする侮れない勢力が残存していた。
そこで佐竹義宣は「南郡三十三館」と呼ばれる鹿行の諸氏16人を会盟目的(知行割りを行なうと言ったとも)の梅見の宴と偽って太田城に招き、酒宴中に一挙に殺害した。
犠牲者は、和光院過去帳によれば鹿嶋郡の鹿嶋氏父子・烟田氏兄弟・中居氏、および行方郡の嶋崎氏父子・玉造氏父子・相賀氏・小高氏父子・手賀氏兄弟・武田氏ほか。全員を一挙に斬殺したのではなく、一旦逃れた者がおり、それを追っ手が討ったという説もある。何れにしても、当主ばかりでなく後継者までも抹殺しようとしたことを意味するので、家康に移封させられた秋田に於ける善政の評価とは裏腹に、常陸國南部には現在も佐竹氏への酷評が残る。義宣は間を置かず残る近隣の城主も放逐し、常陸一國の支配体制を確立。
東條太田城跡
Since 2014
東條太田城跡地の見学と撮影をさせていただける機会が得られましたので、新たに特集を設けました。下記と重複する部分があります。
東條城址南東側遠景 南から望む東條太田城跡』 茨城県稲敷市下太田 
永暦元年(1160)頃~天正18年(1590) 430年間在住
新しい写真と情報はこちら
東條城址西側遠景 東條太田城跡西側』 茨城県稲敷市下太田
永暦元年(1160)頃~天正18年(1590) 430年間在住
新しい写真と情報はこちら
東條城址土岐氏墓 土岐頼英・虎姫夫妻の墓』 東條太田城跡に隣接
中央の、頭が尖っているのが東條太田城最後の城主土岐頼英・虎姫夫妻の墓石です。夫妻で墓石は一つとのこと。( 美浦村お散歩団のひづめさん、ご教示ありがとうございます。)
東條城址共同墓地 東條太田城跡西側の共同墓地
土岐氏墓からもう一段上がったこの場所は、嘗ては東條太田城の中段の郭でした(「美浦村お散歩団」より引用)。諸岡氏ほか土岐氏家臣の墓もあるようです。
龍ヶ崎来迎院多宝塔 来迎院 多宝塔』 茨城県龍ヶ崎市馴馬町
南北朝内乱期以降没落の危機にあった我が東條氏は、土岐氏の麾下に取り込まれました。
衰退していた来迎院は弘治2年(1556)、土岐氏が主体となって小野(稲敷市)の逢善寺住職覚仙により中興され、多宝塔も修復されました。江戸後期の考証学者宮本茶村の調査によれば、中興に関わった多くの氏名が多宝塔相輪の宝珠にリストアップされており、東條氏も含まれます。
来迎院多宝塔
相輪宝珠の銘文』
来迎院中興に関わった者のリスト。 Googleマップ 来迎院
宮本茶村 江戸時代後期の考証学者、歴史家、儒学者、漢学者、漢詩人、教育者。来迎院中興に関わった者のリストの作成者。私の先祖調査に於ける恩人。
「太田」バス停 「太田」バス停
天正18年(1590)3月25日(推定)、豊臣秀吉の小田原征伐に伴う常陸の合戦で秀吉方に滅ぼされ、私(太田修)の先祖は逃亡のため太田に改姓して江戸に潜みました。東條英機さんのご先祖は、改姓せずに遠く東北地方へ逃れたようです。

江戸時代とその前後(Note 4-1)
常陸太田市,水戸市 :天正18年(1590)から江戸に潜伏し、水戸藩士~廃藩置県を経て大正9年(1920)まで約290年間居住。

この時代になると、先祖の様子が鮮明に見えてきます。
天正、文禄と時代は流れ、江戸に潜む東條改太田氏初代の助衞門某に慶長11年(1606)、長男助衞門一有が誕生し太田氏2代目となります。
一有は寛永年中に水戸初代藩主徳川頼房(威公)に細工人太田九藏家として出仕、一有の長男歳勝が『大日本史』の編纂に関わった以外は幕末まで細工人を世襲します。
太田道灌の子孫で徳川家康の側室であり、且つ水戸初代藩主となる頼房の養母でもあった英勝院が自らの菩提を弔う寺を開くため、先祖の地である鎌倉扇谷の太田道灌邸跡地を3代将軍德川家光から譲り受け、寛永11年(1634) 頼房の支援を受け、頼房の姫を玉峯清因として出家させ英勝寺を開いたのが寛永13年(1636)、英勝院が寛永19年(1642)に寂し一周忌に間に合うよう水戸家が伽藍を大々的に整備したのが寛永20年(1643)です。
英勝寺の仏像は鎌倉在住の佛師の作が多いですが、伽藍は鎌倉伝統の様式と違うので鎌倉の宮大工ではなく水戸藩自身が抱えた大工や細工人の仕事であると言われます。下記のように一有頼房の3男で2代藩主徳川光圀に重用されていますので、そのときの細工人の一人であった可能性があります。
明暦3年(1657)、光圀は史書(後に『大日本史』と称す)の編纂を江戸の駒込別邸に設けた史局で開始、史局は寛文12年(1672)小石川の上屋敷に移って彰考館(通称は史館)と命名されます。
寛文元年(1661)、光圀が2代藩主となり、一有光國に重用されます。寛文5年(1665)、光圀は明の遺臣朱舜水を招いて師と仰ぎ、父頼房が造営した小石川藩邸を朱舜水と3代将軍家光の助言を得て整備し、一部を後楽園として江戸市民に開放しました。「後楽記事(Note 4-2)」に於いて、書院の庭園から後楽園の入口に設けた唐門扁額の題字は朱舜水の書であり、その彫刻は太田九藏(一有)とされています。
光圀はまた一有に20歳と50歳の自身の假面道服姿の塑像を彫刻させました。義公假面は常陸太田市の久昌寺に現存、道服姿の塑像光圀没後に移された惠日庵で100年間ほど久昌寺住職に守られましたが文化14年(1817)に野火による火災で焼失、天保5年(1834)に水戸9代藩主徳川齋昭(烈公)が再造させて西山荘に現存します。

延寶5年(1677)、一有の隠居により長男歳勝が細工人の職を相続しますが、歩行士に転籍して『大日本史』の編纂をお手伝いしました。
元禄4年(1691)、光圀は12万石の高松初代藩主となっていた兄松平頼重の長子綱條を水戸3代藩主として迎え、譲位して西山荘へ隠棲します。このとき一有光圀近臣23名の一人として近傍の白坂に屋敷を与えられ、子の歳勝、その弟で下記東條常言と共に先祖の地である常陸國の土を再び踏むことができました。太田氏にとっては天正18年(1590)に常陸國東條太田を逐われて101年後のことであり、さぞ嬉しかったであろうと想像します。
元祿6年(1693)、隠居の身の一有光圀に命ぜられ桂村高久(茨城県東茨城郡城里町高久)の鹿嶋神社に祀られる悪路王の頭形を修理しています。
元禄9年(1696)に一有は西山の白坂で没します。享年91歳。驚異的な長寿を全うしました。
元禄13年(1700)に光圀73歳が西山荘で亡くなると、太田氏3代目の歳勝一家は水戸城下の天王町に引っ越します。西山荘は、3代藩主綱條から藩財政の再建を託された松波勘十郎によって寶永2年(1705)に守護宅以外が廃されました。

一方、太田歳勝の弟常言は祖父の旧姓である東條に復し分家して延寶(延宝)7年(1679)父・兄と同じく水戸藩へ出仕、ここに常陸平氏東條氏が復活しました。東條常言は歩行士から細工人に転籍し、光圀の命で菅原道真木像を制作、光圀は元禄8年(1695)春に常陸國天満宮へ御神体として奉納しました。
常言の孫、東條常房は鎌倉の英勝寺へ寶暦(宝暦)9年(1759)、明和4年(1767)、安永元年(1772)の3回、それぞれ1~数年間出張しました。さらに、英勝寺には私の高祖母きむの祖父、三宅八三郎富盛も水戸藩士として出張しましたので、英勝寺と三宅氏に不思議な縁を感じます。

天保7年(1836)9月10日、水戸9代藩主徳川齋昭が経費節減を目的として江戸詰の藩士を水戸に移すため「新屋敷」の地を武家屋敷地として再開発しました。我が家は江戸詰ではありませんが、天保7年(1836)9月10日から天保10年(1839)9月21日の間に天王町から新屋敷花小路に引っ越します(現存する位牌、および過去帳より)。
花小路に住んだのは大正中期までの84年間です。私自身は茨城県に住んだことがないのですが、私の本籍地は結婚するまで花小路でした。ですから、住んでいなくても懐かしさを感じます。しかし、ここに住んでいた高祖父は、悲惨な目に遭いました。天狗争乱に絡む『慶應元年10月25日の一件』と呼ばれる事件です。

先祖調査メモ』>『水府系纂目録』>『』(太田氏)・『』(東條氏)

Note 4-1: 当サイトの時代定義
◎江戸時代は、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府が成立した慶長8年(1603)を始期とし、明治に改元される慶應(慶応)4年(1868)を終期としています。
そして、慶長8年(1603)~貞享5年(1688)を前記、元禄元年(1688年)~安永10年(1781)を中期、天明元年(1781)~慶応4年(1868)を後期としています。つまり、江戸時代265年間を単純に三等分せず、切りの良い改元の年で区切りました。
Note 4-2: 「後楽記事」 = 元文元年(1736) 源信興著
生瀬一揆 江戸初期に発生した水戸藩による一村皆殺しという悲惨な事件。 Googleマップ つくば市小田
過去帳の一例 太田氏が記載されている過去帳の合計22枚のうちの1枚。ご参考まで。
鎌倉英勝寺 徳川家康側室の英勝院が開いた、鎌倉に残る唯一の尼寺。私の先祖や親戚を含む水戸藩士が交替で出張しました。 Googleマップ 英勝寺
小石川後楽園 水戸2代藩主徳川光圀(義公)が整備を行なった水戸藩上屋敷 Googleマップ 祇園寺
久昌寺 私の先祖が制作した義公木彫面(水戸2代藩主徳川光圀の假面)が保存されています。 Googleマップ 久昌寺
鹿嶋神社と
悪路王頭形
元禄6年(1693)、私の先祖が水戸2代藩主徳川光圀の命で鹿嶋神社に祀られている悪路王頭形を修理しました。 Googleマップ 鹿島神社
常陸國天満宮と
東條常言
元禄8年(1695)、分家の東條氏が水戸2代藩主徳川光圀の命で常陸國(那珂湊)天満宮の御神体を制作しました。 Googleマップ 常陸國天満宮
『水府系纂』目録 水戸2代藩主徳川光圀(義公)の発意で編纂が開始された水戸藩士の系図集
大日本史編纂記録
『往復書案』一覧
水戸2代藩主徳川光圀(義公)の発意で編纂が開始された『大日本史』の編纂資料抜粋一覧
心越禅師と
祇園寺
水戸2代藩主徳川光圀(義公)が世話をした心越禅師と祇園寺 Googleマップ 祇園寺
西山荘と近傍の太田九藏宅 元禄時代の我が家』 常陸太田市新宿町 Googleマップ 元禄時代の我が家
元禄4年(1691)~元禄13年(1700) 9年間在住
白坂という場所で、徳川光圀の隠居先である西山荘から600m程度です。
水戸天王町の太田九藏宅 江戸時代中期の我が家』 水戸市備前町(当時は天王町) Googleマップ 江戸時代中期の我が家
元禄13年(1700)~天保7年(1836) 136年間在住
徳川光圀の没後は水戸城下のここ天王町に引っ越しました。
水戸花小路と楓小路地図 江戸時代後期の我が家』 水戸市新荘3丁目 Googleマップ 江戸時代後期の我が家
天保7年(1836)~大正9年(1920) 84年間在住
天保7年(1836)9月10日、水戸9代藩主徳川斉昭によって新屋敷が武家地として再開発されると、太田九藏一家は天王町からここ花小路へ引っ越して来ました。
水戸花小路南からの全景 南西から見た花小路の全景』 水戸市新荘3丁目 Googleマップ 水戸市新荘3丁目
天保7年(1836)~大正9年(1920) 84年間在住
撮影者(私)が立っているここから、向こうの突き当たりまでの一直線の道路が嘗ての花小路です。
水戸花小路太田九藏宅跡 花小路 太田九藏宅跡』 水戸市新荘3丁目 (現 F様宅) Googleマップ 水戸市新荘3丁目
この場所に、天保7年(1836)から大正9年(1920)までの84年間在住。
4階建てマンションと、その奥のオーナ宅を含む敷地です。茨城県に住んだことのない私ですが、本籍地は結婚するまでこの場所でした。
水戸花小路碑 新屋敷花小路碑』 水戸市新荘3丁目 Googleマップ 水戸市新荘3丁目
この碑の筋向かいに、天保7年(1836)から大正9年(1920)までの84年間在住。
由緒ある旧町名を記念するため、昭和61年(1986)2月にこの碑が設置されました。
水戸花小路碑側面 新屋敷花小路碑側面』 水戸市新荘3丁目 Googleマップ 水戸市新荘3丁目
住居表示により昭和43年(1968)4月を以て花小路の町名は廃止され、5月より旧太田氏宅は新荘3丁目となりました。
水戸楓小路三宅八三郎宅跡 新屋敷楓小路三宅八三郎宅跡の現在』 水戸市新荘2丁目(現 T様宅) Googleマップ 水戸市新荘2丁目
我が家の花小路に隣接する楓小路には、私の高祖母きむの実家三宅氏宅がありました。三宅氏は、天保7年(1836)9月10日の水戸9代藩主徳川斎昭による再開発・屋敷割り後、我が家とそう変わらない時期に引っ越して来られたと思われます。
水戸楓小路碑 新屋敷楓小路碑』 水戸市新荘2丁目 Googleマップ 水戸市新荘2丁目
由緒ある旧町名を記念するため、昭和63年(1988)2月にこの碑が設置されました。
水戸楓小路碑 新屋敷楓小路碑側面』 水戸市新荘2丁目 Googleマップ 水戸市新荘2丁目
住居表示により昭和43年(1968)4月を以て楓小路の町名は廃止され、5月より旧三宅氏宅は新荘2丁目となりました。
『慶應元年10月25日の一件』死刑申渡書および殉難者名簿 慶応元年10月25日の夜、天狗争乱に絡んで水戸赤沼牢屋敷で発生した事件です。死罪17名、斬死1名、合計18名が一晩で殺される中、私の高祖父1名だけが永牢でした。
太田氏宅も三宅氏宅も約300坪です。武家屋敷というのは現代の感覚では広大と言えますね。上級の家臣は、さらに広大な敷地の屋敷を与えられていました。何れにしても、藩から貸与された社宅(藩宅)です。
太田氏一家は私の曾祖父が亡くなった翌年、大正9年(1920)に花小路から横浜へ引っ越しました。横浜へ引っ越してから、今年()まで、まだしか経っていません。茨城に住んでいた通算900年が、いかに長期間であったかということに感慨を覚えます。稲敷時代の430年間でさえ、あと15世代以上を経ないと到達できそうにありません。たくさんの先祖が必死に子孫を繋げてくれたことに感謝です。
外部リンク: 西山の里_桃源
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