太田家位牌の一つ

『太田家位牌の一つ』  普通の位牌も別にあります。
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没年月日順に整理 (普通の位牌と『太田氏系図(PDF)』からの情報を含む)
①『梅雪院法譽一有居士 元祿9 丙子年12月20日(1697年1月12日)』
太田助衞門一有 91歳 太田氏2代目
威公(水戸初代藩主徳川頼房)に細工人の太田九藏家として出仕。取り分け義公(水戸2代藩主徳川光圀)に重用され小石川後楽園唐門扁額の題字を彫刻。近臣23名の一人として隠棲先の西山荘近傍に居住光圀假面塑像を制作。光圀の命で桂村鹿嶋神社悪路王頭形修理も実施。

②『生譽安心善信士 享保8 癸卯年9月26日(1723年10月24日)』
東條兵介常言 62歳 「本氏ニ復シテ東條ヲ稱ス」
太田氏3代目歳勝の弟で、分家して常陸平氏東條氏を再興。
光圀の命で常陸國(那珂湊)天満宮の御神体(木彫菅公像)を制作。(
Note 1)

③『心阿一運清信士 享保9 甲辰年3月3日(1724年3月37日)』
太田九藏歳勝 77歳 太田氏3代目
光圀の命で『大日本史編纂に関わる。

④『知佛永覺善信女 享保9 甲辰年7月27日(1724年9月14日)』
知佛永覺信女 大部村 丹□□□□ <---これは太田九藏歳勝の娘の嫁ぎ先である常州大部村浪士丹平之進政信(1文字多いが)と思われる。したがってその妻、すなわち歳勝の娘と思われる。

⑤『永阿離患信士 享保12 丁未年2月7日(1727年3月29日)』
太田丈衞門歳次 太田氏4代目歳知の弟

⑥『由阿託道清信士 享保14 己酉年4月11日(1729年5月8日)』
太田九藏歳忠 (初名半兵衞) 42歳 太田氏4代目歳知の兄

⑦『専佛妙誠善信女 享保20 乙卯年11月23日(1736年1月5日)』
太田丹之進(九藏歳知)老母 太田氏4代目歳知の母

⑧『名阿義全信士 享保20 乙卯年12月17日(1736年1月29日)』
太部村 丹平□□次男 <---太田九藏歳勝女の嫁ぎ先である常州大部村浪士丹平之進政信の次男と思われる。

⑨『圓阿了頓清信士 元文2 丁巳年12月23日(1738年2月11日)』(上の位牌では戒名が書きかけの状態)
太田丹□□□□□ <---太田丹之進歳知と思われる。その兄弟か? 歳知本人は下記⑩にある。

⑩『壽阿安久清信士 明和8 辛卯年11月19日(1771年12月24日)』
太田九藏歳知(初名丹之進) 79歳 太田氏4代目 天王町

上の大きな位牌は、高さ275mm、幅163mm、厚さ8mmの板の両面に文字が彫られています。文字に色付けがないためスキャナで普通に撮ると全面が真っ黒になってしまいます。そこで、文字を強調すべくコントラストを極端に強くして画像処理を加えたところ、こんな不気味な色になってしまいました。実物は全体に黒々として重厚感があります。
戒名において、「譽(よ)」の文字は浄土宗系であることを意味し、「阿」は時宗(じしゅう)で多用されます。時宗は鎌倉時代に一遍上人により浄土宗から派生したもので、江戸時代の当家は時宗でした。いまは不定(臨機応変)です。

「名號(名号)」の文字の真下、中央に太田氏2代目太田助衞門一有(太田九藏一有)の戒名「梅雪院法譽一有居士」が配置され、しかも3行が割り当てられています。上記の①です。
このことから、後世の先祖達は、水戸初代藩主徳川頼房(威公)に細工人として出仕して「なにがしかの仕事(
Note 2)」を成し、続く2代藩主徳川光圀(義公)に厚遇され小石川後楽園唐門扁額題字を彫刻し、光圀の隠居先である西山荘近傍に近臣23名の一人として屋敷を与えられ、光圀假面塑像を制作した一有を、織豊後期の豊臣秀吉による「小田原の役」に伴って没落した東條氏改め太田氏を立て直した功者と見ていたようです。
一有だけが「居士」であり、ほかは「信士」や「信女」であることからも、一有が別格であることがわかります。
上記③の太田歳勝は光圀が始めた史書(後世に『大日本史』と命名)編纂に活躍したのに特別扱いをされていません。上記②の東條常言も常陸國(那珂湊)天満宮の御神体(木彫菅公像)を制作したにもかかわらず特別扱いをされていないようです。

太田一有の没年月日
下記の3説がありますが享年は全て91歳です。長寿ですね
1. 元祿9 丙子年12月20日(1697年1月12日)・・・・・・・・・上の位牌
2. 元祿10 丁丑年2月29日(1697年3月21日)・・・・・・・・・『水府系纂』と『太田氏系図(PDF)』
3. 元祿11 丑年(
Note 3)12月20日(1699年1月20日)・・・『水戸義公全集』所載『西山過去帳』

疑問点
疑問 1: 普通の位牌があるのに、こんなに大きな位牌を作成した理由は?
疑問 2: 元禄9年(1696)~明和8年(1771)の間で、普通の位牌にある全員が記されているわけではない。選別の基準は?
疑問 3: 上記⑨の戒名を書きかけで中断した理由は?
      上記⑩壽阿安久清信士(太田歳知)の没年月日がないのは何故?
      ここで我が家に事件が起きたか体調が悪くなったのかな?
疑問 4: 分家東條氏を興した初代東條氏1名(上記②)が含まれる理由は?
      普通の位牌に含まれる東條氏も、この東條常言1名のみ。
      祖父の旧姓である東條を名乗り分家して常陸平氏東條氏を再興した常言は旧姓が太田だからだとは思いますが、こういう場合に位牌は本家にも置くのでしょうか?・・・と言っても、東條家は寛政5年(1793)に嗣絶してしまいました。
疑問 5: 上記⑧で、娘の嫁ぎ先の次男の位牌がなぜ太田家にあるの?
      ご主人が亡くなったとかで絶家となったために実家へ戻ったから?
      もしそうならご主人と長男の位牌も持ち帰らないと。

Note 1: 東條常言が常陸國(那珂湊)天満宮の御神体を制作した旨の情報を齎してくださった、那珂湊天満宮宮司神永様、そのご友人の宮野様、宮野様のお嬢様、宮野様の弟様である川上様に感謝申し上げます。
Note 2: 「なにがしかの仕事」について
太田一有は、『太田氏系図(PDF)』に「寛永季中(1624~1644)、威公(頼房)に細工人として出仕した」とあります。
太田道灌の子孫で德川家康側室の於勝局(於梶)は水戸初代藩主徳川頼房の養母であり、英勝院と号して頼房と3代将軍徳川家光の支援により鎌倉に英勝寺を開き、仏殿を建立したのが寛永13年(1636)です。
そして英勝院が寂し、一周忌のために頼房父子(長男松平頼重と次男徳川光圀)が英勝寺の伽藍を大々的に整備したのが寛永20年(1643)ですから、一有が水戸藩に出仕した時期と重なっています。
英勝寺には、細工人の仕事が数多くあります。鐘楼山門、仏殿の内外(蟇股の十二支を含めて)、唐門花と流水文祠堂などの彫刻です。伽藍の建築は宮大工、飾り物は細工人の仕事です。
頼房の子である水戸2代藩主徳川光圀一有に対する厚遇ぶりから思量して、英勝寺の彫刻のどれかは太田九藏一有の作ではないかと私は見ておりますが、しかし証拠がまだ見つかりません。
Note 3: つぎのように、元禄11年は丑年ではなく寅年です。「12月20日」は①と一致しますが元禄9年は子年です。「丑」は②と一致します。①~③は、いったいどれが正しいのでしょうか?・・・
元禄9年(1696)丙子/元禄10年(1697)丁丑/元禄11年(1698)戊寅

外部リンク
各地区公式サイト: 茨城県水戸市常陸太田市

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