宮本 茶村 (みやもと ちゃそん)(諱:元球 別号:水雲 字:仲笏 通称:尚一郎)
生誕: 寛政5年5月15日(1793年6月23日) 場所: 常陸國潮来村
没年: 文久2年6月25日(1862年7月21日) 享年: 70歳 場所: 常陸國潮来村
墓所: 菩提寺である潮来淨國寺隣接の旧自邸内  Googleマップ 潮来浄国寺

江戸時代後期の考証学者、歴史家、儒学者、漢学者、漢詩人、教育者。
水戸藩郷士。9代藩主徳川齋昭(烈公)を輔け、藩政改革・天保の改革に尽力。

宮本氏は、初め首藤と称す。徳大寺大納言藤原實通の後胤、首藤俊通は相模國鎌倉郡雪下山内庄を本貫とする山内首藤氏の始祖となる。源氏譜代の家人として俊通は源義朝に従い平治元年(1159)の「平治の乱」で討死。このとき病で参陣できなかった男
(むすこ)の山内首藤経俊(1137-1225)は永暦元年(1160)、父の菩提を弔うため鎌倉に明月庵(現在の明月院)を建立。
経俊の母摩摩局
(ままのつぼね)は義朝の男源頼朝の乳母なるも、経俊は頼朝が治承4年(1180)8月の挙兵に先立ち与同を求めて派遣した安達盛長に対し平家に与する旨を通告。山内滝口三郎経俊と、その弟山内滝口四郎俊秀は大庭景親に従い平家方にあり、8月23日「石橋山の合戦」に於いて頼朝に矢を射かける。
頼朝が勝利して経俊の斬罪が内定したとき摩摩局が助命を哀訴。赦され、以後は頼朝の麾下で軍功あり。本領の山内は召放となるが俊秀は伊勢國鈴鹿郡を、そして兄の経俊は文治元年(1185)4月下総國豊田郡を賜わり移住。経俊の裔は俊頼が千葉親胤に仕え、俊旨のとき同國香取郡に宮本村を開いて村名を名乗り宮本氏祖となる。宮本俊方のとき常陸國行方郡へ移り常陸平氏行方氏一族の嶋崎氏に仕えるが、嶋崎氏は佐竹義宣による天正19年2月9日(1591年4月2日)の「南郡三十三館主一挙生害(南方三十三館の仕置き)(
Note 1)」に巻き込まれて殺され滅亡。宮本吉兵衞が同郡板久邑(元祿12年(1699)水戸2代藩主徳川光圀により潮来村に改称)に移り土着。石田・窪谷・関戸氏らと潮来八人頭を世襲し、代々、年寄・庄屋(名主)を務め、平右衞門、また平太夫を称す。
元禄時代の潮来は東北地方と江戸を結ぶ水運の要所として下総國佐原とともに繁栄し、最盛期を迎えた宮本氏は長期にわたり財政面で水戸藩に貢献した。しかし、享保の頃から物資輸送の交通路が変わると宮本氏の家業も衰退する。
茶村は、第10代宮本平右衞門高重(
Note 2)の第三子、次男として生まれ、幼少にして敏慧。学問を好む。
長男の篁村
(こうそん)が仙台藩儒(Note 3)となって戻らず、両親の願いにより弟の茶村が第11代となり家業を復興。宮本氏中興の祖となる。
小宮山楓軒(1764-1840)を中心に行方郡延方村(潮来市須賀)に水戸藩が文化4年(1807)に開いた延方学校(後に延方郷校)に招聘され、31歳年長の下総國津宮(佐原市津宮)の儒学者久保木竹窓(
Note 4)と共に教育に当たる。(Note 5)
水戸藩士の小宮山楓軒、會澤正志齋(会沢正志斉)(1782-1863)、藤田東湖(1806-1855)、立原翠軒の子で南画家の立原杏所
(たちはらきょうしょ)、そして土浦の國学者色川三中(いろかわみなか)らと親交を結ぶ。
儒学に通ずる茶村は孟子の教え「長幼の序」に従うため、徳川光圀のように家督を兄篁村の子に継がせようとしたが叶わず。

略歴:
●享和元年(1801) 9歳にして五言絶句の漢詩を作り、その才が世に知られる。
●文化4~5年(1807~1808) 15~16歳の頃、兄宮本篁村と共に江戸に遊学。山本北山
(やまもとほくざん)(1752-1812)に師事。北山は朱子学、儒学、漢学等の折衷学派で漢詩にも通ず。
●文化9年(1812) 20歳のとき恩師北山61歳の死に遭って潮来へ戻り家業を再興。私塾「恥不若
(ちふじゃく)」を開く。関戸覺藏(Note 6)も門人の一人。
●文政12年(1829) 37歳。藤田東湖24歳と杉山復堂が香取・鹿島神社に詣で茶村宅へ止宿。
この年、徳川齋昭 30歳が水戸9代藩主に決定。齋昭は藩主就任直後から藩政改革に着手。自身を藩主に擁立した者や下士を抜擢・登庸して改革を推進。
●天保元年(1830) 38歳。徳川齋昭に海防と教学の必要性を上書。
●天保3年(1832) 40歳。徳川齋昭の推挙で水戸藩郷士列。
●天保4年(1833) 41歳。徳川齋昭が領内巡見のおり茶村宅に立ち寄る。茶村は齋昭に飢饉対策として義倉の設置を上書。
●天保7年(1836) 44歳。この年「天保の飢饉」の最悪期を迎え、義倉を開き、さらに私財を投じて窮民の救済に尽力。
●天保12年(1841) 49歳。徳川齋昭が水戸城三の丸内に作った藩校弘道館の落成式に出席。求められ梅花の詩を作る。
●天保14年(1843) 51歳。徳川齋昭が篤学と「天保の改革」の功を賞して水戸藩郷士に抜擢。
●弘化元年(1844) 52歳。5月に徳川齋昭は幕府から「驕慢」を理由に致仕・謹慎処分とされ、嗣子慶篤(順公)が水戸10代藩主。齋昭は江戸駒込別邸に蟄居。茶村は江戸に出て齊藤監物、住谷寅之介、高橋太一郎、吉成信貞・恒次郎父子ほかの藩士や多数の義民と共に齋昭の雪冤運動を展開。齋昭は11月に謹慎を解除されるが藩政参与を5年後まで禁止されたため、その間に水戸藩政は保守・門閥派結城寅寿らが掌中に収める。(Note 7)
●弘化2年(1845) 53歳。前年の齋昭雪冤運動を幕府から罰せられ水戸赤沼牢へ幽囚。
「獄中に在り、意気自若、日に獄中を回環すること、約一万歩、以て気血を運らす。」(嚮哭雑録(宮内確・吉川勁 撰))
●弘化4年(1847) 55歳。約3年間の獄中生活を終え、命ぜられた蟄居のため水戸から潮来へ戻る。
「釈免せられて郷に帰るに及び、同人皆籃輿に乗る、しかるに先生独り歩して帰る。」(嚮哭雑録(宮内確・吉川勁 撰))(出獄直後の人は歩けないので籃輿に乗るが、獄中に在ってなお足腰を鍛えた茶村は、なんと水戸から潮来まで歩いて帰った!)
●嘉永2年(1849) 57歳。3月、徳川齋昭が藩政参与復帰。4月、茶村は會澤正志齋らと共に蟄居を解かれる。以後、号を水雲と改め著述に専念。
●嘉永4年(1851) 59歳。『関城繹史』脱稿し徳川齋昭に進上。この年、実母阿連以
(オレイ)没。
●嘉永5年(1852) 60歳。長州の吉田松陰22歳が来訪・止宿。このとき、茶村が若い松陰に与えた影響は幾ばくか。
●嘉永7年(1854) 62歳。『常陸誌料』のうち『諸族譜』>『平氏譜』を脱稿。東條氏・太田氏あり。
●安政4年(1857) 65歳。『常陸誌料』全35巻脱稿。
●安政6年(1859) 67歳。『常陸國郡郷考』全12巻脱稿。
●萬延元年(1860) 68歳。『関城繹史』、『常陸國郡郷考』を刊行。この年、徳川齋昭没。
●文久2年(1862)、70歳にて没。葬列千人余と。
●明治40年(1907)11月15日、正五位を追贈される。
●昭和58年(1983)、茨城県の偉人顕彰。顕彰碑は墓石とともに菩提寺淨國寺隣接の(旧)宮本氏邸内にあり。
編纂・著作は『関城繹史
(かんじょうえきし)』、『諸族譜』、『常陸長歴』、『常陸國郡郷考(ひたちのくにぐんごうこう)』を含む『常陸誌料(ひたちしりょう)』、さらに漢詩500首以上。

Note 1: 「南郡三十三館主一挙生害(南方三十三館の仕置き)」(『歴史年表(PDF)』1591年より引用)
2月9日(1591年4月2日) 「南郡三十三館主一挙生害(南方三十三館の仕置き)」
前年、天正18年(1590)7月に後北條氏(小田原北條氏)を倒して全國統一を実現した豊臣秀吉は同年8月に常陸一國を佐竹義重・義宣父子に与えるが、南部の特に鹿行地域には常陸平氏を中心とする侮れない勢力が残存していた。
そこで佐竹義宣は「南郡三十三館」と呼ばれる鹿行の諸氏16人を会盟目的(知行割りを行なうと言ったとも)の梅見の宴と偽って太田城に招き、酒宴中に一挙に殺害した。
犠牲者は、和光院過去帳によれば鹿嶋郡の鹿嶋氏父子・烟田氏兄弟・中居氏、および行方郡の嶋崎氏父子・玉造氏父子・相賀氏・小高氏父子・手賀氏兄弟・武田氏ほか。全員を一挙に斬殺したのではなく、一旦逃れた者がおり、それを追っ手が討ったという説もある。何れにしても、当主ばかりでなく後継者までも抹殺しようとしたことを意味するので、家康に移封させられた秋田に於ける善政の評価とは裏腹に、常陸國南部には現在も佐竹氏への酷評が残る。義宣は間を置かず残る近隣の城主も放逐し、常陸一國の支配体制を確立。
Note 2: 宮本平右衞門高重
高田村の宮内清右衞門正賢(正壽)の長女ウタが潮来村の宮本家九代平太夫俊道に嫁すが子ができず、ウタの弟で三男の宮内高重を宮本俊道の妹阿連以の婿養子とし、高重が宮本家十代となる。高重と阿連以の間には、長女ミヨ、長男鼎吉
(ていきち)(篁村)、次男尚一郎(茶村)、次女ミチ、三女ミヤの五子あり。
当時の婚姻は、庄屋は庄屋と結ばれる例が多く、宮本家、宮内家、伊能家、安藤家、柳川家の親密な関係が築かれた。關戸覺藏家(
Note 5)とも縁あり。
Note 3: [語句説明] 広辞苑によればつぎのとおりです。
藩儒(はんじゅ) = 藩主に仕える儒者。
Note 4: 久保木竹窓 (諱:清淵(せいえん) 号:竹窓(ちくそう) 字:蟠龍(ばんりゅう)・後に仲黙(ちゅうもく) 通称:太郎衞門)
寶暦(宝暦)12年(1762)下総國津宮(佐原市津宮)に生まれた儒学者。暦学、数学、仏典、国学にも通ず。水戸藩士分の列。
大窪天民・渡邊崋山来遊のおり、天民は竹窓の風采が立派であることを、そして崋山は近江聖人(中江藤樹)の如くと賞す。水戸藩南郡奉行の小宮山楓軒が延方に開いた郷校に招かれ、毎月数回、儒教の教典である経書を講義し、また水戸藩の政治顧問として月糧を給された。伊能忠敬を敬愛し親交厚く、日本初となる忠敬の実測日本地図作成に多大な貢献を成す。文政12年(1829)66歳で没。
Note 5: 江戸時代の潮来は多くの地区が水戸藩領の飛知で、一部が麻生藩領でした(麻生氏も常陸平氏)。水戸2代藩主徳川光圀は、源頼朝が文治元年(1185)に創建した海雲山長勝寺を再興しています。
Note 6: 關戸覺藏(関戸覚蔵)(せきど かくぞう)
天保15年(1844)11月8日、潮来村に生まれ宮本茶村の恥不若で学ぶ。天狗争乱では諸生派に身を置いたため天狗党に追われ一家離散の憂き目に遭う。明治9年(1876)潮来村戸長(村長)。自由民権運動に共鳴し明治12年「公益民会」を結社。明治14年、県会議員。明治24年(1891)7月5日、水戸で「いはらき新聞」(現(株)茨城新聞社)を創刊。明治25年(1892)衆議院議員。大正5年(1916)5月9日73歳で没。墓は水戸市神應寺(神応寺)と潮来市淨國寺(浄国寺)。潮来市水神森公園に顕彰碑。
Note 7: 江戸時代後期の水戸藩の状況については『歴史年表(PDF)』の文政12年(1829)以降をご参照下さい。水戸藩史上最大の悲劇(Note 7-1)、天狗争乱に突入して行きます。前記の關戸覚蔵は諸生派(保守・門閥派)にあり天狗党(改革激派・尊攘激派)に追われ、私の高祖父は改革派側にあり「慶應元年10月25日の一件」の際、諸生派によって投獄されました。どちら側にあっても大変な時代でした。
Note 7-1: 水戸領民にとっては、天狗争乱もさることながら「生瀬一揆(生瀬乱)」が最大の悲劇であると、私は思います。

引用・出典:
宮本茶村先生のご後裔宮本様のお話しに加え、宮本様より賜わった文献・資料、インターネット各サイトから情報を取得しました。
1) 「文化の開拓者 伊能忠敬翁」宮内秀雄・宮内敏 共著 発行日: 2005年8月21日 発行所: (株)川口印刷工房
2) 「双硯堂詩集抄解 宮本茶村・漢詩の世界」横須賀司久著 発行日: 1994年2月28日 発行所: (株)五月書房
3) 「鹿行の文化財」第38号 鹿行地方文化研究会・鹿行文化財保護連絡協議会発行 発行日: 2008年3月31日
4) 「考証学者 宮本茶村」潮来市教育委員会発行リーフレット
5) 「江戸時代の取手」第23回企画展用資料 開催期間: 2008年2月19日~4月18日 編集・発行: 取手市埋蔵文化財センター

[語句説明] 広辞苑によれば、つぎのとおりです。
◎庄屋・荘屋(しょうや) = (荘園の事務をつかさどった荘司・荘官の違称)江戸時代、領主が村民の名望家中から命じて、郡代・代官に属させ、1村または数村の納税その他の事務を統轄させた村落の長。むらおさ。畿内西国方面では庄屋、東国方面では名主(なぬし)と呼ぶことが多い。
◎敏慧
(びんけい) = さとくかしこいこと。
◎義倉
(ぎそう) = 凶年に窮民を救う目的で、平時に貧富の差に応じて穀物を徴収し、これを貯えておく倉。中国で北斉・隋・唐の頃行われ、日本でも律令に規定されたが間もなく廃絶。江戸時代にも米沢・弘前などで藩の事業として設けた。
◎郷士
(ごうし) = 江戸時代、武士でありながら城下町に移らず、農村に居住して農業をいとなみ、若干の武士的特権を認められたもの。諸藩によりその制度・呼称に差がある。地士。山士。郷侍。山侍。
◎蟄居
(ちっきょ) = ①②省略。③江戸時代、公家・武士に科した刑の一。出仕・外出を禁じ、1室に謹慎させるもの。特に終身蟄居させることを永蟄居という。
◎雪冤
(せつえん) = 無実の罪をすすぎ、潔白であることを明らかにすること。

News 平成21年(2009)11月7日、宮本茶村先生のご後裔からご連絡を賜わりました。
間を置かず11月21日、わざわざ神戸から横浜へお越し下さって面会が叶いました。たいへんありがとうございます。感激いたしました。
茶村先生が『常陸誌料』>『諸族譜』の『平氏譜一』に、東條氏から改姓した太田氏を収録してくださったお陰で我が家の系図と第三者が編纂した史料との符合を見つけることができました。私の先祖調査に於ける大恩人のご子孫がご健在で、たいへん嬉しく存じます。
1歳年長の宮本様、私も元気なうちにリタイヤできた暁には先祖調査の活動を活発化する計画ですので、宮本様もご健康にご留意いただきまして、お元気でおられますことを切望いたします。

外部リンク
各地区公式サイト: 茨城県水戸市行方市潮来市くらし・市政くらし文化財潮来市の文化財(歴史と主な文化財紹介)先人のあしあと
浄国寺山門 淨國寺(浄国寺)山門
銅板葺の立派な山門が、間もなく完成します。
浄国寺本堂 淨國寺(浄国寺)本堂
浄国寺説明板 淨國寺(浄国寺)説明板
浄国寺関戸覚蔵墓石 淨國寺(浄国寺)内 關戸覺藏(関戸覚蔵)墓石
潮来村に生まれ宮本茶村の恥不若で学ぶ。天狗争乱では諸生派に身を置いたため天狗党に追われ一家離散の憂き目に遭う。潮来村戸長(村長)。自由民権運動に共鳴し「公益民会」を結社。県会議員。水戸で「いはらき新聞」(現(株)茨城新聞社)を創刊。衆議院議員を経て73歳で没。墓は水戸市の神應寺(神応寺)と、ここ淨國寺(浄国寺)。潮来市水神森公園に顕彰碑。
浄国寺宮本篁村墓石 淨國寺(浄国寺)内 宮本篁村墓石
宮本篁村は、弟の茶村と共に江戸に出て山本北山に学び仙台藩儒になった人です。
篁村の墓石は、淨國寺内の宮本家代々の墓域にあります。
宮本茶村墓地 宮本茶村墓地
淨國寺西側の道路筋向かいです。この場所は嘗て宮本家敷地の一部でした。左から潮来市教育委員会の説明板茨城県偉人顕彰碑墓石が墓地に配置されています。墓地には墓石が3基あり、左は陸軍中将宮本三七郎様、中央が茶村、右は茶村の奥様です。
宮本茶村墓石 宮本茶村墓石
潮来市教育委員会の説明板茨城県偉人顕彰碑墓地には墓石が3基あり、左は陸軍中将宮本三七郎様、中央が茶村、右は茶村の奥様です。
宮本茶村説明板 宮本茶村説明板
この説明板、茨城県偉人顕彰碑墓石墓地に配置されています。
宮本茶村 茨城県偉人顕彰碑 宮本茶村 茨城県偉人顕彰碑
潮来市教育委員会の説明板、この顕彰碑、墓石墓地に配置されています。
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