私の生誕地

『私の生誕地の現在』 横浜市鶴見区岸谷3丁目(旧 生麦町) Googleマップ 鶴見区岸谷 大正9年(1920)頃~昭和42年(1967) 約47年間在住  2002年9月撮影
カメラ機種名: Fuji Film FinePix4500, レンズ: カメラ内蔵 35mm換算36mm固定

敷地が300坪もありました。今は家が5軒も建っています。
曾祖父の死去で、祖父温は大正9年(1920)頃、水戸市花小路から横濱へ母ゑい、弟茂とともに引っ越してきました。当初は子安の2階建ての家を借りたそうです。その家で関東大震災に遭い、「揺れがひどくて2階から降りられなかった」と祖父が言っていました。その後、曾祖母祖父、祖母、母の一家は上の写真の場所に子安から引っ越してきました。したがって、ここに住んだのは正確には上記の47年から子安時代を差し引いた期間になります。
大東亜戦争(太平洋戦争)のB-29による空襲では、直撃は受けなかったものの100mくらい先に落ちた爆弾が巻き上げた土砂で建物の一部が埋まったそうです。

敷地は東西に細長く、アマチュア無線(HAM RADIO)に使う3.5 MHzのλ/2ダイポールアンテナを東西方向に張ることができて好都合でした。上の写真の左右いっぱいです。西端は10 mくらいのケヤキの木、東端は太めの竹を何本も束ねたポールです。そのステーは敷地の外でした。アンカーを打ち込んだのが個人の土地ではなかったため、幸い誰からも文句を言われませんでした。
7 MHzのダイポールは、その下に立木を利用して張っていました。
3.5 MHzも7 MHzもアンテナが東西方向ということから指向性が南北になり、ほぼ日本全国に飛びました。
50 MHz用数波長のロンビックも実験しました。作り方が悪かったのか、出力が大きすぎたのか、600 Ωの終端抵抗器が焼けてしまったのを覚えています。
VHFは、北の東台小学校から東の花月園競輪場へ連なる比高数十メートルの台地に邪魔されて電波が飛ばず、西方向だけが開けている地形です。
50 MHzは、家の裏にたくさん生えている篠竹にエナメル線を添わせてエレメントとした6エレの八木アンテナを自作して、三重県までは地上波で交信できました。このアンテナのマストは丸太です。丸太の下端を瀬戸物のドンブリで受けて摩擦を減らし、手で回転させました(
Note 1)。したがって、風が吹いたらどこへ向くか分かりません。いま考えますと、切ったばかりの篠竹ではアンテナのロスが大きく、乾燥してからも、雨が降ると飛ばなくなったのではないかと思います。
なお、上の写真の右端で道路がY字になっており、左に行って1つ目を右折、または右へ行って1つ目を左折するとJA1GWC能登谷さん宅があります。また、右へ行って左側のたしか2軒目がJA1DGO太田尾さん宅です。逆に道路を背後の方向へ歩くとJA1FHC(初代)室田さん宅で、その弟さんが私と同級生です。
太田尾さんと室田さんは無線をやめてしまったようですが、能登谷さんが無線を続けていらっしゃることを数年前に知り、2016年のJA1YJY鶴見クラブの忘年会で再開できました。涙は辛うじてこぼれませんでしたが半世紀ぶりの感激の対面です。その忘年会の写真はこちら。鶴見区在住当時の近所の友人はこちら
以上のようにHAMの人口密度が極めて高い地域で私や友人がお空で騒ぎ出したわけですから、先輩諸氏に多大な迷惑をお掛けしたのは確実です。年も昔の話ですが猛省しております。手遅れですね。HFもVHFも、誰かが電波を出せばそのバンドは他の局が使えないという状態です。それどころか、超再生の受信機でさえも作動させると妨害を与えました。上の写真の前方200 mほど先の山の上にJH1HZJ局があって、50 MHzのAMでアクティブにオンエアーされていました。ホイップアンテナを付けた超再生受信機で聞いていたら「うるさいー」と言われてしまいました。それほどまでに過密地帯だったのです。

私は上の写真の場所で生まれ、近所のハレルヤ幼稚園、横浜市立東台小学校、横浜市立寺尾中学校(通称 = 寺中)、高校まで、この場所から通いました。
幼稚園は近所に二つあって、岸谷公園の向こう側、東台小学校の麓にはトキワ幼稚園がありました。母の話ではトキワ幼稚園にはアントニオ猪木(猪木寛至さん)が通っていて(トキワ幼稚園が猪木さんのご実家とも)、その頃から体が大きいので目立ったそうです。学区から思量するに、猪木さんは小中学校は私と同じく横浜市立東台小学校、横浜市立寺尾中学校へ通学されたと思います。私は6学年下ですので、私が東台小学校に入学した年に猪木さんは寺中へ入学したという計算になります。猪木さんは、その翌年、寺中2年生13歳のとき、ご一家でブラジルに渡ったようです。

岸谷は住居表示以前は、生麦事件(
Note 2)で有名な生麦町でした。ここから1Kmほど離れた第一京浜国道(R15)に面した場所に、篤志家によって建立された「生麦事件の碑」があります。キリンビールの門前の道路が旧東海道で、それを横浜方向へ歩いて第一京浜国道に合流した場所の左側、JR横浜線の高架橋の手前です。
ちなみに第一京浜を川崎・東京方面へ進むとJR鶴見線のガード右手に国道駅があります。この建物には、大東亜戦争(太平洋戦争)のおりに米軍機から機銃掃射された弾の痕が現在も残っています。

我が家は、今から年前の昭和42年(1967)に金沢区へ引っ越しました。現在の我が家はこちら

Note 1: 最近もマストを手で回しています。写真はこちら
Note 2: 生麦事件 = 文久2年(1862) 8月21日 14:00頃、江戸から帰京途中の島津久光(薩摩藩主の父)の大名行列に遭遇した英国のリチャードソンらが、乗馬のまま行き交わそうとしたため斬られた事件。翌年、この事件が薩英戦争に発展。(『歴史年表(PDF)』参照)

外部リンク: 一般社団法人 日本アマチュア無線連盟  横浜鶴見クラブ
各地区公式サイト: 茨城県水戸市  神奈川県横浜市鶴見区金沢区  横浜市立東台小学校  横浜市立寺尾中学校

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