土岐頼英・虎姫の墓

『土岐頼英・虎姫夫妻の墓』  常陸國信太郡東條太田 = 茨城県稲敷市下太田  Googleマップ 稲敷市下太田  2002年5月撮影
カメラ機種名: Fuji Film FinePix4500, レンズ: カメラ内蔵 35mm換算36mm固定

中央の、頭が尖っているのが土岐頼英・虎姫夫妻の墓石です。夫妻で墓石は一つとのこと。(「美浦村お散歩団」のひづめさん、ご教示ありがとうございます。)
場所は東條太田城跡西側の共同墓地内で、坂を上ると最初の区画の奥です。
この土岐氏墓背後のすぐ上が東條太田城の中段の郭 (美浦村お散歩団) で、そこも共同墓地です。この墓地には諸岡氏など土岐氏家臣の墓もあるようです。
遅くとも天文22年(1553)までに東條氏を麾下に収め、代わって東條太田城主となったのが土岐氏(Note)です。

Note: 土岐氏
貞治2年(南朝正平18年)(1363)、山内上杉憲顕が鎌倉御所の招きで関東管領に復職するとき、美濃國守護土岐氏傍流の原刑部少輔秀成を帯同しました。
そして嘉慶元年(南朝元中4年)(1387)、原秀成は山内上杉憲顕の被官として江戸崎に移住し信太庄惣政所を開設しました。秀成は、土岐原氏を名乗り初代となります。土岐原氏は上杉方国人領主として龍ヶ崎城、木原城(美浦村)を築き信太・東條一帯を支配しました。
天文12年(1543)、美濃國守護の土岐頼芸が斉藤道三に逐われ、江戸崎の土岐原治頼に土岐氏惣領を譲ったので土岐原氏はそれ以後、土岐氏を名乗ります。詳細は司馬遼太郎「国盗物語」にて。
土岐氏は小田氏との抗争で疲弊し、常陸國の北の雄である佐竹氏の南下政策に対抗するため後北条氏に与したことから、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに伴う常陸の合戦で滅ぼされます。江戸崎城が落ちるとき「一兵たりとも損せずに」土岐治綱が降伏したとされますが、発掘調査で婦女子を含む夥しい人骨が発見されたそうですから、それほど平和裡に開城できたのではないのかもしれません。土岐治綱は一部の家臣と共に帰農して存続します。治綱の弟で龍ヶ崎城主の土岐胤倫も開城して諸処浪々の身となり、やがて龍ヶ崎に戻って子孫は母方の豊嶋氏を名乗ります。

外部リンク: 専門的解説は下記サイトをご参照ください。
美浦村お散歩団お城歩き東条城(太田城)
余湖くんのホームページ茨城県の城址稲敷市(旧新利根町)東条城(新利根町下太田)
各地区公式サイト: 茨城県稲敷市

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