『南から望む東條太田城跡全景』 常陸國信太郡(文禄4年(1595)から河内郡)東條太田 = 茨城県稲敷市下太田・太田 永暦元年(1160)頃~天正18年(1590) 約430年間在住(Note 1) 2002年5月15日撮影 カメラ機種名: Fuji Film FinePix4500, レンズ: カメラ内蔵 35mm換算36mm固定 ★2014年に撮影した新しい写真はこちら。 この一帯が、我が家の二つの「名字の地」です。(Note 2) 一つ目は、平安時代後期の永暦元年(1160)頃、この一帯の東條を領し東條太田城を築いて本拠としたため「東條氏」を名乗ります。東條氏の時代は400年を超える長期間でした。 二つ目は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めに伴う常陸の合戦で蘆名(芦名)盛重に負けて逃亡するため、東條荘の一部である太田の地名から「太田氏」を名乗りました。 東條太田城跡は、現在は茨城県稲敷市下太田357の(株)東海という建材会社の工場敷地です。敷地内に、下の(旧)新利根町役場発行のパンフレットのとおりの東條城跡碑があります。会社の方が、「城跡を見たいという人がときどき来ますよ」とおっしゃっていました(Note 2-1)。2014年に撮影した東條城跡碑はこちら。 当サイトでは『東條太田城』で統一していますが、東條城(東条城)、また太田城とも呼ばれます。 東條太田城跡に昭和22年(1947)に開校した太田中学校は、昭和35年(1960)の新利根中学校への統合後も太田教場として残されましたが昭和37年(1962)に廃止されました。東條城跡碑は太田中学校時代のものです。その碑文では「土岐氏居城」となっており確かにそのとおりなのですが、土岐氏よりはるかに永く居城した築城者である東條氏の名がないのが残念です。しかし逆に、(旧)新利根町役場発行パンフレットでは土岐氏に言及していません。 東條太田城は中世の城ですので、近世のそれのような天守閣はあるはずがないですし、堅固な石垣もありません。ただし、敵の攻撃から城を守る構造は一応備えていました。例えばこの写真の右端が姿隠しの土累、中段の郭(現在の共同墓地)へ進入した敵へ矢を射かける横矢はこちらです。 (「美浦村お散歩団」より))。 「一応備えていた」と申しますのは、落城したのが1回ではないようですから大して堅固な城ではなかったようです。南北朝期には南朝方として旗揚げをしたため、暦應元年(南朝延元3年)(1338)10月5日に北朝方の佐竹義篤に率いられた大掾高幹、鹿島幹寛・幹重父子、烟田時幹、宮崎(みやがさき)幹顕ら(全て東條氏と同族の常陸平氏)に攻められ容易く落城しましたし、下記(Note 2)の天正18年(1590)に秀吉方に負けましたので、都合2回落とされたことになります。 Note 1: 東條氏が秀吉方により滅ぼされたのが天正18年(1590)ですので在住期間を430年間としておりますが、下記(旧)新利根町役場発行パンフレットの指摘どおり東條太田城は天文22年(1553)以前に土岐氏へ譲渡したようです。もし譲渡時期を天文22年とすれば、東條氏が東條太田城に居住したのは393年間となります。 Note 2: 平安時代後期の永暦元年(1160)(Note 3)頃に常陸平氏大掾氏族の平忠幹がこの一帯を父直幹から割譲されて多気(たき)(つくば市)から移住し、地頭として東條太田城を築き本拠として東條五郎左衞門尉忠幹と名乗ってから紆余曲折はあったものの430年もの長きにわたり、東條氏はこの地を本拠としました。 しかし、織豊時代後期の天正18年5月20日(1590/6/21)、豊臣秀吉の小田原攻めに伴う合戦で、後北条氏に与した土岐氏に従う東條彈正は、秀吉方佐竹義宣の弟蘆名(芦名)盛重配下の神野覚助に滅ぼされます。 この戦いで、東條彈正の子助衞門は生き残り、後北條氏方残党探索の手から逃れるため東條庄太田村の太田に改姓して江戸に潜伏します。 その太田氏初代助衞門が常陸國に戻ることはなく、やがて太田氏2代目の助衞門一有(太田九藏)が101年後の元禄4年(1691)に水戸藩士として、しかも2代藩主徳川光圀(義公)の近臣23名の一人として西山荘近傍に屋敷を与えられ念願の常陸の土を踏むことができました。稲敷の地でないのが残念です。稲敷の地は、天正18年の落城から412年後の平成14年(2002)(上の写真撮影日)に私が踏みました。感慨深いと同時に、東條氏がこの地に居住した430年間より短い412年ということを考えますと、何だか変な感じがします。 Note 2-1: 平成26年9月14日のコメント 現在は(株)東海の敷地ではなく、新しい所有者がいらっしゃるそうです。その方の許可を得て撮影できましたら報告いたします。現在は工場の建物はなく、がれきの撤去中とのことです。 Note 2-2: 平成26年10月11日のコメント 新しい所有者の許可どころではなく、ご案内までしていただいて撮影することができました。その報告として特集『東條太田城跡』を設けました。新情報がありますので、どうぞご覧下さい。 Note 3: 下の(旧)新利根町発行のパンフレットでは忠幹が東條の地に城を構えたのが永歴(Note 4)年間となっていますが、もし永暦年間なら1160~1161であり新利根村史(二)でも同時期とされています。新利根村史(二)の場合、20ページの文中では永歴元年(1160)、143ページの年表では永暦元年(1160)となっています。 Note 4: 「永歴」(えいれき)という年号は日本には存在しないので、「永暦」(「えいりゃく」または「ようりゃく」)が正しいと思われます。永暦は二条天皇朝の年号で、1160年1月10日~1161年9月4日です。 東條太田城跡を西側から見た写真はこちら。西側のもう1枚の写真はこちら。土岐頼英・虎姫夫妻の墓はこちら。 |
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『東條城跡碑と説明』 (旧)新利根町役場発行のパンフレット 東條城跡碑文には登場しない築城者の東條忠幹が、このパンフレットでは紹介されているので嬉しいです。 |
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『下太田地図(一部)』 (旧)新利根町役場発行 |
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