『高田公園 高田城跡三重矢倉とソメイヨシノ』 新潟県上越市本城町 2009年4月11日 16:58:31撮影 カメラ機種名: Canon EOS 40D, 撮影モード: 絞り優先AE, 絞り数値: 11.0, シャッター速度: 1/180,測光方式: 中央部重点平均測光 , 露出補正 +1/2, ISO感度: 400, ホワイトバランス:オート レンズ: EF16-35mm f/2.8L II USM, 焦点距離: 35.0mm(35mm換算=56.0mm), 画像サイズ: 3888x2592を1024x683にリサイズ 夕日を浴びて赤く染まっています。高田城跡に整備された、この高田公園には桜が4千本、提灯が3千個あって夜桜で有名ですが、到着時刻が早過ぎました。 西堀の桜はこちら。ライトアップされた三重矢倉はこちら(2014年版)。 真田幸昌築城上田城跡のしだれ桜はこちら(2010年版)。 高遠城跡のタカトオコヒガンザクラ(高遠小彼岸桜)はこちら(2010年版)。そのアップはこちら(2010年版)。高遠城跡のしだれ桜はこちら。高遠城跡公園の説明はこちら。 宿泊した斑尾高原の残雪はこちら(2009年版)。2009年の桜紀行のおりに見学した善光寺御開帳はこちら。 高田城本丸跡説明板より引用 高田城は慶長19年(1614)、高田の菩提が原の地を主郭に德川家康の6男松平忠輝が築城した75万石の大規模な近世城郭であった。 本丸は内堀(薬研堀)と塁に囲まれ、現状では堀幅40~50m、平均水深5mあり、塁は高さ10m前後で総長約1,000m、石を用いず2ヵ所の内桝形門と1ヵ所の内カギ形門を挟んだ囲み土塁である。 現在の本丸内郭跡は東西215m、南北228mの広さで、この中に城主の御殿や多くの建物が存在していた。 天守閣を造らず、塁上には南西隅の三重矢倉を「御三階」と呼んで城のシンボルとし、他に多門櫓2棟、矢倉台1ヵ所、御茶屋台1ヵ所などが設けられていた。 この高田城も、寛文5年(1665)の高田地震、宝暦地震(1751)、善光寺地震(1847)及び享和2年(1802)の火災等にあい、その都度規模が縮小されたが、明治3年の火災によって再び焼失し、以後再建されなかった。 高田城は、慶長19年から8家18代の城主が交代し257年間続いたが明治4年にその幕を閉じた。 明治41年、第13師団入城の際に土塁の切り崩し等で城跡は変形したが、基本的な原形は保存されており、新潟県の史跡に指定されている。 外部リンク 各地区公式サイト: 新潟県>上越市>上越観光ネット 1泊バスツアー(2009年版) 1日目: 4月11日 7:00 横浜上大岡発~横浜駅西口経由~(関越道)(上信越道)~12:00 上田城跡公園着/13:00 出発~あんずの里~16:40 高田公園着/18:00 出発~19:30 斑尾東急ホテル着 2日目: 4月12日 7:40 ホテル出発~9:15 善光寺着/11:00 出発~14:00 高遠城跡公園着/15:00 出発~(中央道)~XXX~22:00 上大岡着 帰路、中央道を上り山梨県笛吹市に入るまでは全てが順調でした。ところが、東京までの間で事故が3件発生して所要4時間というので、一宮御坂で下りて河口湖に向かいました。 高速料金がどこまででも\1,000 max.の政策で運転に慣れない人までが繰り出したため、そこここで渋滞の原因を作ったり衝突したりしたようです。 一宮の一般道では一面の桃の花を見ることができて儲かった気分になったのも束の間、御坂トンネル手前から河口湖へ下りるまで大渋滞でした。河口湖から乗った富士五湖道路は快適。御殿場から乗った東名高速も、全く動かないような渋滞ではなかったので、何とか当日に家に戻ることができた次第です。運転手さんと添乗員さんの判断が正解でした。 山梨県笛吹市以降の渋滞を別にすれば、桜は行くところ全てが見頃で素晴らしい2日間でした。最近は、自分で運転するよりバスツアーが気に入っています。 |
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